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左翼・革新・護憲 斗争スレ

889チバQ:2020/08/31(月) 20:38:26
 自民党とは「協調政治」と「反戦」という最大公約数があるという点についても、赤松は連立の理由にはならないと反論する。

 「確かに野中さんたちのようにリベラル派はいたけれども、それは時に応じて部分的な連携をすればいいわけで、常態的に連立する理由にはならない。村山さんは小沢さんのトップダウン型を批判していたが、小沢さんだって独裁的に強かったわけではない。だから国民福祉税構想だって頓挫したし、閣僚人事だって自由にできなかった。社会党に根回しがないというけど、それは社会党自体にコミュニケーションをとる力、情報を入手する力がなかったということだ」

排除の論理

党名を「社会民主党」に変更し、頑張ろうを唱える村山富市党首ら=1996年1月19日、東京・千代田区の社会党本部
 赤松らは95年1月に、新党結成を目指して、まず国会で新会派「民主連合・民主新党クラブ」を結成することを決めた。衆参24人の議員が、17日に、社会党会派からの離脱届を提出するというので、その場面を取材しようと、私も朝早くから国会で待ち受けていたことを覚えている。しかし、この日に阪神淡路大震災が発生したため、新会派結成は先送りされ、リベラル新党構想はいったん頓挫することとなった。

 一方で、社会党と同じように、「反小沢」で「非自民」勢力から脱退し、自民党との連立政権にはせ参じた新党さきがけの鳩山由紀夫や菅直人らも、新たなリベラル勢力の結集を目指して動いていた。この動きが赤松らの新党構想と合流し、後の民主党結成につながっていく。この間、村山は首相として阪神淡路大震災や、オウム真理教による地下鉄サリン事件といった緊急事態、さらに、慣れない外交舞台にも忙殺され、自らの新党構想は極めて漠然としていたと言っていい。

 回顧録などによれば、村山にとっての「リベラル新党」とは、社会党全体が新党さきがけなどと連携して、労働組合を中心に農業団体、中小企業労働者などを支持基盤に、資本家に対抗する勢力を幅広く結集するというイメージだったようだ。 96年1月に村山は首相を辞任してから、党に戻って本格的に新党問題に取り組むことになった。早速、同月の党大会で、党名を「社会民主党」に変更したが、あくまでも解党することなく、党全体がリベラル勢力結集の主体となれるよう、徐々に改革を進めていこうという「漸進論」だった。


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