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左翼・革新・護憲 斗争スレ

887チバQ:2020/08/31(月) 20:37:37
 「野合」とも批判された連立だったが、時事通信の世論調査によると、村山政権の平均支持率が34.9%で、不支持率が39.2%とほぼ拮抗している。90年代の社会では、戦後体制の限界を克服するための改革が求められる一方で、小沢が主導した小選挙区制や「普通の国」論へのアレルギーもまだ強かった。その「戸惑い」が「協調政治」や「反戦」意識への揺り戻しを、ある程度容認したと考えられる。

 この「リベラリズム」の精神は、自民党を支配してきた「戦後保守」にも存在していた。以前も紹介した通り、村山政権で自治相だった自民党の野中広務は「守るべきは平和であり、反戦であり、国民を中産階級にすること」と述べていた。これに象徴される「保守リベラリズム」は、社会党の左派リベラリズムと、精神的な本音の部分で一体だったのだ。差があるとすれば、どれだけ理想を求めるかという度合いの問題だった。

許されなかった社会党の生存本能

党首会談を前に握手する(左から)武村正義新党さきがけ代表、村山富市新首相、河野洋平自民党総裁=1994年6月30日、国会
 自社両党が本音ベースではつながっていることを多くの人が理解していたからこそ、「なれ合い」と批判してきた。そして本音をあからさまにして連立したとき、溜飲を下げた「反小沢」勢力もいただろう。しかし、建前を放棄した左派リベラリズムを失笑し、あきれ返った人も多かったのではないだろうか。

 村山らが自衛隊違憲、日の丸・君が代反対、日米安保反対という左派リベラリズムの古き独自性を放棄し、「協調政治」「反戦」というリベラリズムの最大公約数をもって保守勢力と連立した段階で、社会党自体の歴史的な存在意義は失われたと言っていい。村山政権の支持率は不支持と拮抗していたものの、社会党自体の支持率は村山政権発足直後の94年7月の8.1%から、村山が退陣する96年1月の5.3%へと下落していた。村山の「選択をする幅」が、多くの人々にとって、「許される幅」になかったと考える方が妥当だろう。

 それでも社会党は、生き残るために、自民党との連立に一縷の望みを懸けた。村山は小沢に党が潰されることを警戒していた。だから潰される前に、手を差し伸べてくれた自民党に飛びついた。

 自民党にとっても、政権の座に復帰するために社会党が必要だった。左派リベラリズムを攻撃し、戦後の平和主義を「奴隷の平和」と蔑んでいた、当時、自民党で後に東京都知事となる石原慎太郎までが、それまで話をしたこともない村山の事務所を訪ねて来て、「あなたに総理になってもらいたい」と頭を下げたというのだから、その執念は凄まじい。自民党には「あと1年野党生活が続いたら自民党は崩壊する」という危機感も広がっていたのだ。


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