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左翼・革新・護憲 斗争スレ

837チバQ:2019/12/25(水) 10:34:07
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191225-00020562-bunshun-pol

社会党「悲劇のエース」95歳で死去 石橋政嗣氏は何をやったか


12/25(水) 6:00配信

文春オンライン







社会党「悲劇のエース」95歳で死去 石橋政嗣氏は何をやったか


90年の引退後はほぼ公の場に現れず ©共同通信社


 元社会党委員長の石橋政嗣氏が12月9日、老衰で死去した。享年95。好敵手だった中曽根康弘元首相と石橋氏の相次ぐ訃報は「自社55年体制」と昭和の政治が名実ともに去った感慨を抱かせる。

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 石橋氏は戦後、長崎県で進駐軍の労働に従事し、全駐労の幹部や県議を経て1955年に衆院選初当選。外交・安保問題を得意分野とし、1960年の日米安保改定の際は、当時の岸信介首相を国会論戦で追い詰め、「安保五人男」の一人として名を馳せた。

 55年体制の頃、なんといっても国会における野党の花形は予算委員会での外交・安保質疑だった。ここで得点をあげれば党幹部への道も開けるからだ。

 石橋氏は66年に、後に自らの代名詞となる非武装中立論を発表する。順調に党幹部の階段を上り、70年、成田知巳委員長の下で書記長となって7年間コンビを組んだ。80年には『非武装中立論』を出版、30万部のベストセラーになり、英語やロシア語、ドイツ語にも翻訳された。

 だが自民党の壁は厚く、社会党は長期低迷に入っていく。成田―石橋体制の後を継いだ飛鳥田一雄委員長が退任した83年、石橋氏はいよいよ委員長に就いた。時の総理は中曽根氏で、非武装中立論で論争を仕掛ける一方、現実路線も展開。自衛隊の「違憲合法論」を提唱し、野党連合政権に向けて公明党、民社党と共闘する「社公民路線」を唱えた。だが当時は、党内から「憲法違反だが合法などとんでもない」との批判も根強かった。裏で自民党と手を握り、社会党の要求もある程度は実現できる「55年体制」は居心地がよく、現実路線に舵を切る動機が弱かったのだ。
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石橋氏の蒔いた種があったから「山が動いた」

 一方で、一般有権者に対しては「反対ばかりの社会党」のイメージをぬぐい去ることもできず、86年、中曽根氏による衆参同日選で大敗。委員長を土井たか子氏にバトンタッチすると、次の90年衆院選に出馬せず、引退した。

 期待を一身に背負って登場しながら、結局は党勢を上向かせることができなかった「悲劇のエース」。だが石橋氏の蒔いた種があったからこそ「山が動いた」。土井社会党は、89年参院選で、野党共闘を通じて自民党を過半数割れに追い込んだ。

 皮肉にも社会党は村山富市委員長が首相になると、党内論議抜きで「自衛隊合憲」に転換。その後は社会民主党に名前をかえ、いまや党存亡の危機にある。

 自民党、共産党と並んで政党再編には一切かかわらなかった社民党も、今、立憲民主党への合流論議が始まっている。石橋氏は泉下で何を想うだろうか。
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「週刊文春」編集部/週刊文春 2019年12月26日号


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