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左翼・革新・護憲 斗争スレ
1
:
とはずがたり
:2014/01/21(火) 22:00:10
日本共産党・社会民主党・沖縄社会大衆党・新社会党・その他新左翼諸党派
社会主義思想なんかも
左翼運動の細分化に被せるように本掲示板でも分裂気味だったので思い切って統合
70
:
名無しさん
:2015/01/11(日) 13:31:46
http://thepage.jp/detail/20150106-00000003-wordleaf
〈議席倍増で注目〉共産党は、名前を変えるべきか? 大澤真幸
2015.01.07 07:00
昨年末の衆院選挙の結果は、実につまらない。自分の政治的な期待に反して結果だったのでつまらない、と私は言っているのではない。学問的な関心──政治学や社会学の知を動員して分析したいという欲望──をかき立てない結果だった、という趣旨である。
そうした中で、唯一、「おやっ」と思わせる要素があったとすれば、それは、共産党のかなりの躍進である。この選挙は、よく考えてみると誰が勝ったのかよくわからないところがある。もちろん、与党は、圧倒的多数の議席を獲得したのだから、勝ったことにはなるが、考えてみると議席数を増やしたわけではない。議席を増やしたという点では、野党第一党である民主党がまさにそれにあたるのだが、しかし、前回選挙の歴史的敗北の分を取り返す水準にははるかに遠く及ばなかった。もっと悲惨な負け方だったのは、弱小野党たちで、ほとんど風前の灯のような議席数になってしまった。そんな中で、唯一、確実に勝利したと言えるのは、共産党である。議席数を2.5倍に増やしたのだから。
となれば、この際、どうせ本気になって実現するつもりのない「共産主義」の看板を捨てて、もっと現実味のある政策やイデオロギーを意味する党名を掲げれば、党勢をさらに拡大することができるのではないか。ゆくゆくは、政権を担う、などということもありうるのではないか。そのような意見が出てもおかしくない。
が、結論的に言えば、名前を変えたらダメである。誰にとってダメかと言えば、もちろん、共産党にとって、である。「共産党」という名前がなかったら、この勝利はありえなかった。この名を捨てたら、さらなる勝利は望めない。今日、共産党にとって、最も重要なのは、その党名である。どうしてそうなるのか、その理由を説明しよう。
故若松孝二監督の「実録・連合赤軍」は、タイトルが示すように、ほとんどドキュメンタリー映画のような迫真性がある。この映画の中で、連合赤軍のメンバーが口癖のように言う。「共産主義の地平では…」と。現実の連合赤軍でも、間違いなく、この言葉は、頻用されていたに違いない。
「共産主義の地平では」とは、「共産主義(を目指す)という大義を前提にして考えてみると」というような意味である。映画を見ていると、あまりにも何でもかんでも「共産主義の地平」で考えられているので???本人たちは大まじめなのだが??、何だか吹き出しそうになる。
たとえば、彼らは、「山岳ベース」とかと言う、山梨や群馬の冬山の中に設けられた「基地」に、運動部の合宿みたいなかたちで隠れ住み、来るべき暴力革命に備えて、「軍事訓練」をしていた。が、ある日、何人かのメンバーが、たまにはちゃんとした風呂に入りたいと、町に降りて行って銭湯に行き、少しさっぱりして、基地に戻ってきた。すると、彼らは、他のメンバーたちから、「共産主義の地平」で銭湯に行ったのが正しかったのか、と激しく糾弾された。他のメンバーは、ほんとうは、羨ましくて、ただ嫉妬しているだけなのだが、非難するときには、「共産主義」を持ち出さなくてはならないのだ。
このように、政治イデオロギーの空間には─それが活きているときには─必ず、一つの特権的な記号がある。他のすべての記号、他のすべての要素は、この特権的な記号と関係づけられる限りで、意味をもち、魂を宿すことができる。逆に言えば、その特権的な記号と関係をもてなければ、すべては無意味で、つまらないことになってしまう。
たとえば、連合赤軍のメンバーは、毎日、匍匐前進したりして、寒い中で戦争ごっこのようなことをしている。それは、「共産主義の地平では、ブルジョワ国家権力との闘争を意味する」のである。共産主義の地平がなかったら、「何でこんなことをしているんだろう?」「オレっていったい?」というくだらないものになる。
71
:
名無しさん
:2015/01/11(日) 13:32:19
>>70
この連合赤軍にとっての「共産主義」のような特権的な記号を「ヘゲモニー的記号」と呼ぶ。ヘゲモニー的記号には、重要な条件がある。今述べたように、それは、他のすべての記号に意味を与える原点のようなものだが、それ自体は、何を意味しているのか、誰もわかっていないのだ。連合赤軍は、つまみ食いの是非を問うときにも、指輪をはめることの善し悪しを問題にするときにも、「共産主義の地平」に言及するのだが、実は、誰一人として、共産主義とは何なのか、よくわかってはいなかったはずだ。
ヘゲモニー的記号のおかげで、すべての記号に意味が与えられるのに、ヘゲモニー的記号自体の意味は定まっていない。が、同時に、それは「何だか豊かな意味をもっている」かのような印象を与えるのだ。そして、誰もが密かにこう思っている。「私は、『共産主義』の意味をよく理解していないのだけれども、誰かがちゃんとわかっているはずだ」と。しかし、その「ちゃんとわかっている」はずの「誰か」はどこにもいない。
このようなヘゲモニー的記号は、政治イデオロギーの空間には必ずある。たとえば、戦後間もない頃の日本人にとっては、「民主主義」がヘゲモニー的記号だった。「共産主義」や「民主主義」ほどには神通力はないが、ほんの少し前の「政権交替」や「仕分け」、現在の「アベノミクス」だって、ヘゲモニー的記号としての側面をもっている。政権交替とは、結局、何から何への変化なのか、わかっていた人は一人もいない。アベノミクスとは何であり、どういう原理でそれによって景気が回復するのか、わかっている人はほとんどいない(多分、安倍首相もわかっていない)。
さて、すると、現在、共産党が、小さいながらも、それなりに勝ったとして、「共産主義」とか「共産党」とかが、ヘゲモニー的記号になっているのか。なってはいない。現在の「共産主義」という記号は、ヘゲモニー的記号の水準には達していないのだ。となれば、そんな名前は捨ててしまってもよいのではないか。ところが、そうはいかない。
まず、連合赤軍の「共産主義」と違って、現在の「共産主義」はヘゲモニー的記号ではない、ということを説明しよう。「共産主義」が何を意味しているかを(ほとんど)誰もわかっていないため、結局は何も意味していない、という点では、両者は共通している。しかし、連合赤軍は、それが実は意味をもたないということ、そしてほんとうは誰もわかっていなということ、それらを自覚していなかった。彼らは、この記号が何かとてつもなくすごいことを意味しているはずで、そのことを誰かは理解している(もしかすると自分も理解しているかも)と思っていたのだ。
しかし、現在は違う。「共産主義」が何を意味しているのか、共産党員も含めてほとんど誰も理解していないだろう、ということをすべての人がわかっている。共産党に一票を投じた人も、「共産党員のほとんどが『資本論』を読んだことがない」ということを知っている。さらに、万が一、「共産主義」なるものに詳しい共産党員だか幹部だかがいたとしても、彼らでさえも、その「共産主義」とかいうものを本気になって実現する気などないことを、(日本人の)誰もが知っている。共産党の支持者は、特にそのことをよく自覚している。要するに、「共産主義」や「共産党」が空虚な記号であることを、皆、よくわかっているのだ。この点が、ヘゲモニー的記号とは違う。
ならば、「共産党」とか「共産主義」とかという記号は要らないのではないか。別のもっとちゃんとした意味のある党名の方がよいはずではないか。そう言いたくなるだろうが、違うのだ。
72
:
名無しさん
:2015/01/11(日) 13:33:50
>>71
そのことを理解するためには、どうして共産党がそこそこ勝ったのか、その原因をはっきり把握する必要がある。
今回の選挙の結果を、もう一度、思い出すとよい。与党は一応圧勝した。しかし、異常に投票率が低かった。たとえば「郵政選挙」(これもヘゲモニー的記号である)のときは、自民党が圧勝し、かつ投票率が高かった。「政権交替」で民主党が圧勝したときもそうだ。しかし、今回、自民党は圧勝しているが、投票率はきわめて低い。
ここに示されていることは、こういう感覚だ。「はっきり言えば、選びたいものはひとつもない。強いて選べと言われれば、仕方がないから自民党に投票する」。選びたいものは何もないという感覚に素直になれば、結局、投票に行かないことになる。それでも、無理して選ばなくては、という方に力点をおけば、結局、現状の政権を、つまり自民党に票を入れることになる。自民党は、積極的に支持されたわけではない。消極的に──他に選ぶものがないからという理由で──選択されただけである。
しかし、たまに、わざわざ投票所に行きながら、「選びたいものがない」ということをはっきりと投票によって意思表示した者もいるのだ。そういう人が票を投じたのが、共産党である。つまり、「選びたい党はひとつもない」ということの表現として、共産党に、かなりの票が集まったのである。
どうして、他でもない共産党が、そういう特別な対象に選ばれたのか。どこか共産党に、他の弱小野党にはないすばらしいところがあったからなのか。違う。「共産党」とか「共産主義」とかという、あからさまにアナクロニスティク(時代遅れ)な看板を掲げている以上は、本人たちも政権を担当するつもりがあるとは思えない……そのように有権者の目には映ったのだ。「まさか彼らだって共産主義なるものを実現しようとしているとは思えない」。ということは、少なくともその党名で政権を担うことはありえない。だからこそ、共産党は、「選びたい党はひとつもない」という意識を代表することができたのである。
共産党と同じくらい、あるいはそれ以上に弱小で、政権を担いそうもない党はあるのだが、それらの党は、共産党のような役割を果たすことはない。なぜかと言うと、それらの党は、「生活の党」とか「社民党」とかいう、いかにも現実におもねるような名前で、普通に政権をねらっている感じを出しているからだ。こういう党では、「どの党も選びたくないんだ!」という気持ちの受け皿にはなりえない。
というわけで、共産党が、思いがけずに勝てたのは、主として、この空虚な名前のおかげなのである。この名前を捨てたら、絶対に勝てない。さらに言えば、共産党員には気の毒だが、決して真の勝者になる(つまり政権政党になる)ということがない、と見なされているその限りで、共産党は、小さな勝利を得ることができるようになっているのである。バラは他の名でも香しいが、共産党は他の名だったら何の魅力もない。
もっとも、日本共産党が真に狡猾で有能であれば、この状況に便乗して、ほんものの勝利につなげていくことも不可能ではない。少なくとも、どの政党も選びたくはない、という否定的な感覚だけは、日本人の中で、広く共有されているのだから。いずれにせよ、「共産主義」という名前を放棄してはならないことは確かだが。
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