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左翼・革新・護憲 斗争スレ

539とはずがたり:2016/11/27(日) 10:34:55
>>538-539

カストロの蜂起

この様な状況を受けて、フィデル・カストロが武装勢力を組織し、1953年7月26日に130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死にカストロは逮捕され、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。

その後メキシコに亡命していたカストロは、1956年12月に60フィートのプレジャーヨット、「グランマ号」でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。それらは「7月26日運動」と呼ばれた。「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエンテ州で始まった。その中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。

キューバ革命

1958年5月24日に、バティスタはカストロ率いる反乱軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていた上に、アメリカから貸与を受けた豊富な兵器を手にしていたにもかかわらず、カストロの反乱軍は士気が下がった政府軍兵士の多くの軍務放棄によって一連の勝利を成し遂げた。

その後カミロ・シエンフェゴスの指揮下にあった反乱軍はヤガイェイの戦いで大きな勝利を収め、「El heroe de Yaguajay」(ヤガイェイの英雄)と呼ばれるようになった。またチェ・ゲバラの部隊もサンタクララでの決戦で勝利を勝ち取るなど、その後の各地における戦闘において政府軍の敗北が決定的となった。

政府軍の敗北が決定的になったことを受けて、1958年12月31日の夜、バティスタはハバナ市内のコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日未明、クバーナ航空機でキューバを脱出し、反共的な独裁者のラファエル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命した。
数時間後、政府軍のカンティーヨ将軍が「臨時政府」の成立を宣言したが、カストロはこれを認めずカミロにハバナ突入を命じた。政府軍兵士の抵抗も受けないままにまもなくハバナは反乱軍によって制圧され、8日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに反乱軍(革命軍)の勝利が確定した(キューバ革命)。

亡命
ドミニカ亡命後は、かつての支持者から700万アメリカドルを超える献金を受けたが、トルヒーヨの失脚後もキューバへは戻らずに、反共主義者のアントニオ・サラザールが政権を握っていたポルトガルのマデイラとエストリルで回顧録を書いて暮らした。その後フランシスコ・フランコ将軍が独裁体制を敷いていたスペインで投資を行い成功をおさめたものの、マルベーリャの郊外の自宅で心臓病により死去した。2006年に亡くなった妻とともにマドリードのCementerio Sacramental de San Isidroに埋葬されている。


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