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左翼・革新・護憲 斗争スレ
145
:
名無しさん
:2015/09/16(水) 21:03:39
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150916-00044785-jbpressz-bus_all
60年安保デモ参加者が目にした「その後の日本」
JBpress 9月16日(水)6時15分配信
壮大な歴史の皮肉とでも呼ぶべきか。
昨今の安保法制関連法案への国会周辺などでの反対デモを見ていると、どうしても1960年(昭和35年)の安保条約反対のデモが想起される。現在よりもずっと大規模なデモだったが、彼らの主張は通らなかった。逆に、主張が通らなかったことによってこそ、日本の平和や安定が保たれたのである。その事実を改めて強く思わずにはいられない。
安保法制関連法案の国会審議はいよいよ大詰めを迎えた。反対派は国会周辺で抗議デモを繰り広げるなど国会外での運動を強めている。民主党など野党もそうしたデモに「民意」があるとして政府に法案の撤回や修正を求めている。
だが、反対デモの勢いで国会の法案の是非が決められるべきなのか。
■ 55年前に酷似している現在の状況
この点で想起されるのが1960(昭和35)年の出来事である。
つい先日の9月13日、私はフジテレビのニュース討論番組「新報道2001」に出演し、1960年の改定安保条約反対運動の「歴史の教訓」を番組内で提起した。同じ番組に出演した民主党幹事長代理の福山哲郎参議院議員が「最近の国会周辺でのデモに12万人以上(警察発表は3万数千人)が集まった。これほど国民の反対が強いのだから、この法案は採決されるべきではない」と主張したことに対してだった。
法案の是非を、国会での審議や採決ではなく、デモの規模や勢いで決めるとなれば、それは議会制民主主義を否定するのに等しい。
それだけではない。すでに55年前に現在の状況に酷似し、しかも規模がずっと大きい反対デモがあったのだ。もしも当時の反対デモの主張どおりに日本の政策が動かされていたら、この国は東西冷戦の中で漂流し、ソ連側の陣営に入っていたかもしれない。いずれにしても、日本はとんでもないことになっていただろう。
日本が国全体として反対デモの主張通りにしなかったことは正解だった。少なくとも日本国民の圧倒的大多数はその後も現在もそう考えていると明言できる。
■ 400万人以上の労働者が抗議ストに参加した60年安保
私は当時、大学1年生で政治については無知だった。だが日本の社会が「アンポ、ハンタイ!」の叫びで埋め尽くされ激動していたことは理解していた。
1970年前後には、60年安保条約の延長をめぐってまた論議が起きた。ただし60年安保の論争に比べると熱気は少なかった。私は70年安保闘争の動きは新聞記者として取材にあたった。
さて、1960年当時の状況を簡単にまとめると以下の通りである。
1960年1月、当時の自由民主党の岸信介首相は米国のアイゼンハワー大統領との間で改定日米安全保障条約に調印した。なぜ「改定」かというと、日米両国間にはすでに1951年に調印された安保条約があったからだ。この旧条約は米軍の日本駐留を自由に認める一方で、米軍が日本を防衛する責務は規定していなかった。改定安保条約はそうした点を修正し、片務性を減らしていた。この内容は現行の日米安保条約とほとんど変わりない。
だが、岸首相がこの改定安保条約の調印に国会の承認を得ようとすると、国内で猛反対が起きた。
国会は自由民主党が多数を制していたが、反対陣営は当時の最大野党の日本社会党を中心に国会外での反対運動を強め、「安保改定阻止国民会議」を組織した。この組織に労働組合、学生運動諸団体、学者有志、芸能人などが加わった。主要新聞も反対派を支持して、デモをあおった。
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