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自民党スレ
8300
:
チバQ
:2022/09/05(月) 08:15:17
本当の「聞く力」
「寛容と忍耐」をスローガンに掲げた池田は安保改定の混乱を乗り切り、政治を安定させると、自主憲法制定を謳った岸政権時代の安全保障重視路線から「軽軍備・経済優先」へと政策を大転換させた。
戦後日本の政党政治を専門とする福永文夫・獨協大学教授は、論文「派閥構造から見た宏池会」のなかで宏池会が保守本流と呼ばれる理由をこう書いている。
〈池田派は、(軍備・法制など体制をめぐる)ハードな争点は棚上げにして、安保体制下で、軽軍備、経済大国をめざした。戦後の「経済一流」国家日本の推進役を果たしたことから、「保守本流」と呼ばれ、自らも誇示してきた〉
自民党の派閥は、領袖を総理・総裁に担ぎ上げることを目的につくられた。いわば権力闘争の実戦部隊という面が色濃い。
宏池会も規約第1項で〈池田勇人氏の政治活動を支援する〉と謳っていた。だが、池田と派閥の議員やブレーンとの関係は、トップの指示で派内が結束して動く、後の田中(角栄)軍団とは大きく違っていた。福永教授が語る。
「宏池会では大平ら議員やブレーンが総理大臣としての池田をうまくコントロールしていた。池田は蔵相時代に『貧乏人は麦を食え』と失言するなど、岸と似た高姿勢なところがある政治家として知られ、その強硬姿勢が政権の行方に悪影響をもたらすことが心配されていた。そこで側近たちが池田を“教育”するために掲げたのが寛容と忍耐、低姿勢というスローガンです。
寛容は宮沢、忍耐は大平が考えた言葉で、従来の強権的な政治ではなく、野党や国民との対話を重視して合意形成を図るとの意思表明でした。池田もそれを受け入れた。池田を岸亜流の政治家と見ていた当時の記者たちは、就任会見の池田のソフトな印象に面食らったそうです」
池田は酒豪で知られ、性格は豪放磊落、側近の言いなりに動く人物ではない。議論好きで蔵相時代から秘書官だった大平や宮沢らと公用車のなかでも喧嘩腰で議論を戦わせたという。前出の山岸氏がこう振り返る。
「池田さんは気が短く、車の中で議論をしているうちに癇癪を起こして、『生意気を言うな、大平。降りろ!』と言い出すんだそうだ。売り言葉に買い言葉で大平さんや宮沢さんも『はい、降ります』と降りた。そうすると、翌日になって池田さんが『昨日はちょっとオレが言いすぎた。悪かった』と電話してくる。そういうことが何度もあったと大平さんや宮沢さんに聞かされた。
それでも池田さんは、他人の話はよく聞く。だから側近たちは怒鳴られながらも、絶対聞いてくれるという信頼関係があった」
まさに「聞く耳」を持った政治家だった。岸田首相の「聞く力」も池田のそうした姿勢をお手本にしているとされるが、一番の違いは、池田は意見を「聞く」だけではなく、側近やブレーンと議論を戦わせて政策を強力に実行していったことだ。
(後編に続く)
※週刊ポスト2022年9月9日号
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