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自民党スレ
8229
:
チバQ
:2022/08/12(金) 23:19:45
https://news.goo.ne.jp/article/bunshun/politics/bunshun-56443.html
〈誰が安倍の跡を継ぐのか?〉リーダー亡き後に“舞い上がる小物たち”
2022/08/12 11:00文春オンライン
月刊「文藝春秋」の名物政治コラム「赤坂太郎」。2022年9月号に掲載している同コラムの拡大版「清和会7人のバトルロワイヤル」を一部転載します。
◆◆◆
独断文書に「それは筋が通らない」と異議
元首相の安倍晋三が暗殺されたことによる「力の空白」は、自民党内の権力構造を大きく変えようとしている。
思い起こせば、1991年5月に安倍晋三の父親である晋太郎が病に倒れた後、三塚博と加藤六月が「三六戦争」と呼ばれる激しい派閥の跡目争いを繰り広げた。この2人に森喜朗、塩川正十郎を加えた4人が「安倍派四天王」として君臨。自分より10歳若い実力者の森を味方につけた三塚が後継の座を奪取した。だが、今回は様相が全く異なる。清和会(安倍派)の後継を狙う有力者の不在が、遠心力を強めているのだ。
安倍死去の直後、まず突っ走ったのは清和会事務総長の西村康稔だった。凶行の翌日、安倍の遺体が東京・富ヶ谷の自宅に戻ると、西村は弔問客の対応を取り仕切った。この日訪れたのは首相の岸田文雄をはじめ、森や小泉純一郎、菅義偉ら首相経験者、現職の自民党三役など。西村は自らの存在をアピールするかのように安倍宅の玄関先から遺体が安置された3階まで彼らを案内するなど動き回った。
派内の不興を買ったのは、彼が独断で決めて配布した文書だった。そこには「弔問はお受け致しません(清和研会員であってもご遠慮ください)」と記されていた。この文書は、派閥が百鬼夜行の混乱状態に陥る遠因となった。経産相の萩生田光一や安倍政権で官房副長官を務めた西村明宏らは「それは筋が通らない」と異議を唱え、安倍宅へ向かった。父晋太郎の仏壇横に安置された棺に眠る遺体のすぐ側に陣取っていたのは、西村康稔だった。後から来た安倍派会長代理の塩谷立と下村博文は、棺の後ろで手を合わせていた。
「事務総長だからという理由は立つが、それにしても動きが露骨だったね」。温厚な性格で他人の悪口を滅多に言わない会長代理の塩谷も思わずこう漏らしたほどだが、西村のスタンドプレーはその後も続く。
「世話人会方式」の崩壊
7月11日午後6時、増上寺。安倍の通夜の参列者は2500人にも及び、長蛇の列ができた。祭壇横の会場の出口前には、妻の昭恵、安倍の実兄の寛信夫妻が立ち、その横には車椅子に座った実弟で防衛相の岸信夫夫妻が並び、延々と続く弔問客を最後まで見送った。
耳目を引いたのは会場の外だった。弔問客が遺族に挨拶して会場から外に出るとすぐ横の通路には、安倍派の幹部がずらりと並ぶ。さらに外に出ると、そこには西村が一人で立っていた。
生前、安倍氏が「落ち着きのない人だね」と評した男
派閥幹部が並ぶ一角は遺族のいる場所と近接するため、弔問客との会話は最低限の挨拶に留めざるを得ない。しかし西村は、弔問客と一対一でゆっくり話ができる場所に陣取っていたのだ。通夜・葬儀の実務を取り仕切る事務総長の立場を利用して自分だけ良いポジションを確保し、派閥を支援する経済人らに自分をアピールする――。他の幹部たちは一様に眉をひそめた。
西村は安倍派の意思決定機関として世話人会方式を画策した。西村に加え、塩谷、下村、官房長官の松野博一、参院安倍派会長の世耕弘成、国対委員長の高木毅、そして萩生田の7人体制である。森にも根回しし、7月15日夕刻にセットした臨時の派閥総会で了承を得ようと動いた。だが、安倍が生前、西村を「落ち着きのない人だね」と評していた通り、性急な動きはすぐに頓挫する。
「国葬までは、安倍さんが残した現体制を堅持するのが筋ではないですか。喪中の最中に、なぜ新設の世話人会なのか、説明がつかない。私は反対します」
かつて派閥会長だった三塚博元蔵相の秘書から後継に転じた西村明宏が松野や安倍派最高顧問の衛藤征士郎らに説いて回ると、新たな世話人会メンバーの大半が賛同。安倍政権の最後、西村康稔の後に官房副長官を務めた西村明宏は、温厚篤実な人柄で同じ西村でも康稔とは対照的だ。康稔の自分ファーストな言動は、とりわけ中堅以上の議員には嫌われ「彼だけは担ぎたくない」と公言する議員も少なくない。
その結果、派閥総会はいったん流れ、翌週に「現体制の継続」が了承された。どちらも集団指導体制には違いないが、世話人会方式で主導権を握ろうとした西村康稔の思惑は外れた。安倍の死からわずか1週間前後のこの暗闘は、派の行く末を暗示する派内政局だったのだ。
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