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自民党スレ
8035
:
チバQ
:2022/07/07(木) 10:15:22
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e2be9018893862c4fd36b6650bf68cda5c104f2
「理屈より現場」いまなお響く角さん語録 田中角栄首相就任50年/下
7/7(木) 3:00配信
毎日新聞
首相就任後、初めての記者会見に臨む田中角栄首相
今回の連載には、田中角栄氏の首相秘書官を務めた小長啓一氏(91)、新潟県議の星野伊佐夫氏(83)、元県議で旧栃尾市長の馬場潤一郎氏(81)、元県議の三富佳一氏(84)に協力していただいた。角栄氏について4人に振り返ってもらった。
【田中角栄氏が党総裁だった当時のポスター】
◇「理屈よりも現場」人生訓に
◇小長啓一氏
(首相就任)当時(通産相秘書官を務めて)1年たってほっとしていたら、再び(首相)秘書官になったわけですね。
だいたい首相官邸では昼飯は秘書官と一緒で、10〜15分で終わります。首相就任後、昼飯の席に行く時に、たまたま一緒に歩くような場面がありました。親族でもなければ政治家の上下関係があったわけでもないお付き合いで、田中さんから「巡り合わせとしての縁を大事にしようね」と言っていただいて、ほろっとした。
これはよく言うセリフなのですが、「君の生まれはどこだ?」と通産相秘書官になって1週間くらいで聞かれ、「岡山です」と答えた。「岡山というのは、雪は(『雪国』を著した)川端康成のロマンの世界だよな。どっかの料亭で美人の娘からお酌をしてもらいながら一杯飲んで雪を愛(め)でると。岡山県人にとって雪はそんなもんだ。新潟県人の俺にとって、雪は生活との戦いだ」と言われた。これが私のモチベーションを、とんと高めた。
それから田中さんがよく言われていたのが、「努力なくして天才なし」と「理屈よりも現場。理屈をしゃべっている暇があるんだったら現場に行ってみなさい。現場の中にこそ真実がこもっている。政策の芽はそこにある」でした。自分の人生訓になっていて、思い返しながら反省材料にしています。
◇額縁の裏の筆書き、絶筆に
◇星野伊佐夫氏
これが田中先生の絶筆(星野氏宛て。富士山の写真が入った額縁の裏に筆書きで『越山 田中角栄』)。倒れる前の日(1985年2月26日)に目白に行ったんだよ。そしたらオヤジ(角栄氏)が「なあ星野君、良い写真だろ?」。「よく写っていますね」と答えて「欲しいな」と言ったら、「そっか、長岡持ってくっか」。そんで事務所の人が梱包(こんぽう)してくれた。まさか明日倒れるとは……。そいで(27日の)夕方になって早坂茂三秘書から電話が来て、「星野さん、たまげるなよ。オヤジさん倒れたで」と。
絶筆だとは俺、知らんかった。思いもよらなかった。そしたら倒れて数カ月後に秘書さんから電話があって「星野先生、あんた先生が写真くれたけども、今ありますか?」「うん、ありますよ事務所に」「あれが絶筆になりました」と。
いちばん最初(の出会い)は長岡駅なんですよ。通産相で来られた時に、田中先生が歩いてくるでしょ。それで越後交通の本間幸一先生が、こう俺をぐっと前に出すんだよ。「これ(越山会)青年部、星野です」「お、今度遊びに来なさい、東京に」。それが第一声だった。やっぱり自分の盟主だよね。昭和51(1976)年のクリスマスに目白に呼ばれてさ。「お前、県(議)会出ろよ」と。もしご存命であれば、いっぱい相談に行っただろうね、山ほど。
◇「葬儀は最後の付き合い」
◇馬場潤一郎氏
最初の頃は田中先生が、そげな偉い人だとは思わなかった。(私が)県議になっていない時はね。県議になって1年目。冬になると栃尾は陸の孤島になってどこも行けないから、栃尾市民のため悠長に待ってはいられない。その陳情で田中先生のところに行った。
「何としても(県議の任期)4年の間に造らなければならない道路があるのです」と言うと、「お前、色は黒いし面白い男だな」と。亀の形の呼び鈴があってしっぽ部分を押すと、リンリンと鳴る。それが秘書の部屋につながっていて、「今度新しく出た馬場君というのだけれど、君に頼みがあるということだから聞いてやれや」と秘書を紹介してくれた。
だんだん(目白邸に)出入りするようになって、昼時はカツ丼とか食わせてもらった。俺たちが一服している間に、身の回りの世話をする人が「先生、時間ですから」と、いつも喪服を持ってくる。「そんなにしょっちゅう葬儀に行くんですか?」と言うと、「お前たちは結婚式と葬式、どっちを大事にする?」と聞かれる。華やかだし「結婚式だ」と皆が言うと、「だからお前たちはダメなんだよな。葬儀は、その人間との一番最後の付き合いだぞ。それを大事にするようでなければ絶対政治家なんて出世しないよ」。ごもっともだなと。そういうところが今でも人気があるんだろうね。
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