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自民党スレ

8032チバQ:2022/07/07(木) 10:06:10
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf012550b683937d249fdb0b636d9e5dbd2e2c22
椅子から30センチ飛んだ 激戦の総裁選 田中角栄首相就任50年/上
7/5(火) 3:00配信



 田中角栄氏が首相に就任してから7日で50年を迎える。「今太閤」「コンピューター付きブルドーザー」と評され、昭和を代表する政治家だった「角さん」。半世紀前を知る人たちの証言を基に、おもに就任までの3日間をたどった。


 ◇秘書官「クールに見ていた」

 角栄氏は当時、衆院議員10期目の54歳。自民党幹事長を経て、佐藤栄作首相から任命された通産相のポストをそつなく務め、次期総裁候補に躍り出ていた。

 1972年7月5日午前。通産相秘書官の小長(こなが)啓一氏(91)は、総裁選の舞台になった東京・日比谷公会堂まで角栄氏を送り届けた。霞が関の秘書官室に戻ると、臨時党大会に集結する衆参両院議員と地方議員の熱気に包まれた会場が、ブラウン管テレビに映し出されていた。我が省の大臣が総理・総裁になるのか――。同僚らもテレビの前に集まり、固唾(かたず)をのんで見つめている。その姿を横目に、小長氏はほっと胸をなで下ろした。「やっと激務から解放される。私の任務はこれで終わり」だと。

 ちょうど1年前の通産相就任時から秘書官を務めてきた。朝、車内で新聞7紙を読みあさり、日々のお供から角栄氏が気分転換に取り組む週末のゴルフまで、多くの時間をともに過ごした。苦楽を味わいながら充実した1年。「田中さんが総理になられても(私が首相)秘書官になることはないわけですから、極めてクールに見ていた」

 ◇テレビ中継見守る支援者ら

 同じころ、霞が関から約300キロ離れた新潟県長岡市。中選挙区制だった頃の新潟3区の中心都市だ。田中家の系列企業「越後交通」の秘書室では、角栄氏の後援会「越山会」で青年部長を務める星野伊佐夫県議(83)や、角栄氏に仕えて「国家老」と呼ばれた秘書の本間幸一氏らが、テレビ中継を見守っていた。

 隣の栃尾市(当時)でも、後に県議や同市長を務め、「角さん一本」で選挙戦を生涯支え続けることになる馬場潤一郎氏(81)が総裁選の行方を気にしていた。繊維会社勤務の会社員。越山会会員ではなく、田中ファンでもなかったが、角栄氏に対する地元の注目度の高さは感じていたという。

 総裁選は、角栄氏、福田赳夫氏、大平正芳氏、三木武夫氏という4人の候補者で争われた。1回目の投票結果は、角栄氏156票、福田氏150票、大平氏101票、三木氏69票。過半数を取った候補者はおらず、規定通り上位2人による決選投票にもつれ込んだ。この時点で角栄氏と福田氏との票差は、わずか6票。「椅子から30センチ飛び上がった」。角栄氏の驚きぶりが伝わっている。

 文字通り「角福戦争」の火蓋(ひぶた)が切られた。この展開に、小長氏は「1年間お仕えしていたから、『田中さんに勝ってもらいたい』という個人的な心情はあった」と振り返る。「時の勢いとしては田中さんの方が優勢かなと、どことなく感じ取っていた」

 佐藤氏による7年8カ月にわたった長期政権。党内刷新のためには、右派勢力を引き継ぐ大蔵省出身で「官僚派」の福田氏よりも、均衡ある国土発展をうたう「日本列島改造論」を掲げたハト派で「党人派」の角栄氏の方が、新しい政治へのイメージにぴったり合うのではないか――。そう分析していたという。

 決選投票の結果は、角栄氏282票、福田氏190票。92票差という圧倒的な勝利を収めて第6代総裁に選ばれると、角栄氏は右手を上げる例のポーズで万雷の拍手に応えた。


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