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自民党スレ

7933チバQ:2022/04/14(木) 14:53:23
気配りの人、30〜40年怒らず
自民党総裁選を争った3氏とゴルフをする中曽根康弘首相(左から2人目)。同3人目が次期総裁に指名された竹下登幹事長、左端は宮沢喜一蔵相、右端は安倍晋太郎総務会長(肩書は当時)=1987年10月24日、東京・八王子市の八王子カントリークラブ

 首相は安倍政権で外相や党政調会長を務め、「禅譲」狙いで安倍氏への忠勤に励んだ。しかし、安倍氏は自身の後任を決める2020年9月の総裁選で菅氏を支持し、首相は完敗した。政界での「岸田総裁の芽はなくなった」との陰口に耐えながら、再挑戦の機をうかがい、わずか1年で総裁の座を射止めた。「慎重」「温厚」「忍耐強い」「感情を表に出さない」。政界における首相の人物評だ。これらは、トップダウンにこだわらない政治手法と合わせて、竹下元首相と共通している。

 竹下氏は島根県掛合町(現雲南市)の造り酒屋の長男として生まれ、島根県議を経て、1958年の衆院選で初当選。田中角栄元首相が率いた最大派閥・田中派に所属し、同派議員の大半を糾合する形で竹下派を結成。1987年11月に63歳で首相に就任した。政権運営のスタイルは、「つかさつかさ」の判断を尊重するボトムアップ型。性格は温厚で忍耐強く、感情を表に出すことは皆無。気配りで知られ、政財界を通じた幅広い人脈が武器だった。

 首相就任直後、「直近で怒ったのはいつですか」と問われると、真顔で「言われてみると、最近怒った記憶はない。かれこれ30〜40年は怒ってないな」。実際、造り酒屋(「出雲誉」で知られる竹下本店)を継いだ二回り年の離れた異母弟・竹下三郎氏、竹下内閣で政務秘書官を務めた波多野誠氏、竹下内閣当時に住み込みの秘書だった多々納剛人氏(現島根県議)は「怒った姿を見たことがないし、怒鳴られたこともない」と口をそろえる。

 もちろん、人間ゆえに怒りを覚えることは当然あったようだ。それでも「表情の違いでわずかに感じる程度」(波多野氏)、「唇を少しかんで話すくらい」(多々納氏)。「退陣表明の前夜も、普段と変わらず淡々としていた」(多々納氏)という。

 また、「気配り」は政界随一。茨城県内のゴルフ場に行けば、キャディーへのチップは当然として、売店にある納豆を買い占め、帰宅後に警護官や私邸の警備に当たる署員にお土産として配るといった具合だ。三郎氏によると、さまざまな人への細やかな気配りを目の当たりにし、「登兄さんは人の気持ちが読めるのですか」と聞くと、「確かに読める」と答えたという。

 「権力のトップ(首相)たる者、7割批判されて当たり前。3割の人に評価されてよしとしないといけない」。竹下氏は就任直後、首相としての心構えも周囲に語った。国会答弁などは「言語明瞭、意味不明」が竹下氏の代名詞。丁寧にいろいろと答えてはいるが、全体を通すと何を言いたいのか分からないという意味。野党議員に配慮しているように見せかけて、追及をかわす「竹下流」の答弁術だ。多くを語るが、攻め口を与えない「岸田流」と通じる。

 竹下氏は最大派閥・竹下派を基盤とし、総裁の座を争いながらも盟友関係にあった安倍晋太郎氏を幹事長に起用。長期政権になるとみられたが、リクルート事件が政権を直撃し、1年7カ月弱で退陣した。大平正芳、中曽根康弘の両内閣ができなかった付加価値税(消費税)を導入したのが、政権の大きな「実績」。野党人脈が生き、関連法の成立にこぎつけた。


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