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自民党スレ

7605チバQ:2021/11/08(月) 18:11:09
https://news.yahoo.co.jp/articles/315d21d2766aff01f03cb91c1e5d9e43227203f7
自民党石原派が「大将」伸晃氏落選で消滅の危機、実は見えていた凋落の傾向
11/6(土) 6:01配信

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ダイヤモンド・オンライン
小選挙区での敗北が確実となり、支持者らに頭を下げる石原伸晃氏 写真:スポーツニッポン新聞社/時事

 第49回衆議院選挙が終わった。「世代交代選挙」など、さまざまな分析記事は既に多数出ているが、私がこの選挙で最も複雑な思いを感じたのは、一つの派閥が凋落(ちょうらく)するさまを見た瞬間だ。(ジャーナリスト 横田由美子)

● 衆院選、石原伸晃氏は 比例復活もかなわず落選

 投開票日の午後8時ジャストに、「石原伸晃氏、小選挙区で落選」という速報が流れた。比例復活すらできなかった。

 伸晃氏は、所属議員が8名前後と小さいながらも、「近未来政治研究会」(近未来研=石原派)という派閥の領袖である。まだ60代の大将が首をとられた以上、派内の求心力が大きく下がることは言うまでもない。その上、会長代行の野田毅氏も落ちている。近未来研は、開票終了時点で合計6名となってしまった。もはや、派閥の体をなせないことは、誰の目にも明らかだった。

● 凋落の兆候は派閥創設時にまで さかのぼる

 かつての近未来研の隆盛からは考えられないが、今振り返れば、現状を招く兆候は幾つもあった。

 その一つが、オーナー(創始者)である山崎拓元副総裁のイメージと力が最後まで強すぎたことである。

 近未来政治研究会という派閥は、いわば政界ベンチャーのような位置づけだったと私は考えている。

 1998年に、中曽根康弘元首相や渡辺美智雄元副総理らが率いた政策科学研究所(政科研)から独立し、総勢37名で旗揚げした。以後、通称は山崎派となる。ちなみに政科研は、山崎氏らの脱退で、亀井静香氏らのグループと合流し、現在の志師会(二階派)に変わった。

 当時の山崎氏は、小泉純一郎元首相(清和会)や加藤紘一元幹事長(宏池会)らとグループ「YKK」を結成し、政界をリードする存在だった。99年には、加藤元幹事長とともに派閥の長として自民党総裁選にも出馬している。

 しかし、「宏池会のプリンス」と呼ばれ、総理の椅子に一番近いと思われていた加藤元幹事長は「加藤の乱」で失脚。小泉内閣が誕生すると、山崎氏は、党幹事長・副総裁となり、北朝鮮との外交交渉や拉致問題で人脈や手腕を発揮し、小泉政権を支えた。この頃が山崎派の絶頂期であったように感じる。当時、政治資金パーティーを開けば、一度で億近い売り上げがあったという。

 その後、山崎氏は女性スキャンダルで落選。翌年には国政に復帰するも、拉致問題で外務省を巻き込んだ主導権争いをしていた安倍晋三氏(清和会)が、小泉氏の後継として総理大臣の座に就いた。


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