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自民党スレ

7515チバQ:2021/10/10(日) 17:23:51
 ◇岸田氏の人事とは

 総裁となった岸田氏は早速、党役員・閣僚人事に着手し、党の要の幹事長に甘利明党税制調査会長(麻生派)を起用、約9年間、副総理兼財務相の地位にあった麻生氏を党副総裁に充てた。政調会長は総裁選で争いながらも、決選投票では連合を組んだ高市早苗氏を起用、総務会長には衆院当選3回の福田達夫氏を大抜てきした。河野氏は党広報本部長に甘んじた。

 閣僚人事では財務相に麻生氏の義弟、鈴木俊一元環境相(麻生派)、外相は茂木敏充氏(竹下派)、防衛相は岸信夫氏(細田派)の再任、経済産業相は萩生田光一文部科学相(細田派)が横滑り、内閣の要となる官房長官には松野博一氏(細田派)が起用された。

 早速、「安倍・麻生内閣」だという批判が出ているが、現実の総裁選で安倍晋三元首相と麻生氏の影響力が強かったのは事実であり、岸田氏はそれを受け入れたと言える。

 82年11月、当時の自民党田中派の声援で首相に上り詰めた中曽根康弘氏は「田中曽根内閣」と呼ばれるほどの田中派偏重内閣を作り上げた。

 党幹事長は田中派会長の二階堂進氏、官房長官は田中角栄氏の懐刀だった後藤田正晴氏、蔵相(現財務相)には同派のニューリーダーと呼ばれた竹下登氏らを起用、田中氏が刑事訴追されたロッキード事件対策として、無派閥ながら田中氏と極めて親しかった秦野章氏を法相とした。

 実際、組閣の過程で田中派の二階堂氏らが中曽根氏に「いくらなんでもやり過ぎだ。考え直した方がいい」と再考を促したが、中曽根氏は「いや変えません。このまま行きます」と、断固押し切ったという。

 そのうちに中曽根氏は次第に田中氏と距離を置くようになり、田中派内で台頭してきた竹下氏と、竹下氏と親戚関係にあった金丸信氏を重用、田中氏が85年2月に病気で倒れると、最高権力者然として振る舞うようになる。

 岸田氏の場合、総裁選の論功行賞色を強めつつ、老壮青バランスを取り入れる人事をやってのけた。しかもなかなか芸の細かな人事もある。例えば、デジタル・規制改革・行政改革担当相には河野氏の父洋平氏の選挙地盤を引き継いだ牧島かれん氏(衆院当選3回)を充て、河野太郎氏が菅政権で担当していた規制改革、行政改革を引き継がせた。

 こうした岸田内閣の人事が国民に受け入れられるかどうかは、岸田新首相が就任早々直面する衆院選の結果でわかるだろう。

 岸田首相は国会での代表質問の後、衆院を解散、衆院選を10月19日公示、31日投開票の日程で行う方針だ。ゆえに第100代首相(第1次岸田内閣)は必然的に短命である。衆院選で与党(自公)が勝利すれば、改めて特別国会が召集され、岸田氏が再び首相に指名され、第101代首相(第2次岸田内閣)が誕生することになる。

 総裁選、その直後の内閣改造(組閣)から衆院解散までの日数が1カ月以内という事例は佐藤栄作内閣の黒い霧解散の時だ。佐藤首相は66(昭和41)年12月1日の総裁選で再選され、同月2〜3日に党役員人事・内閣改造、同月27日に衆院解散、翌67年1月29日衆院選(自民党は277議席)、2月17日閣僚全員再任で第2次佐藤内閣発足というスケジュールとなった。ちなみに佐藤首相は66年12月の内閣改造・党役員人事で、選挙直前にもかかわらず、幹事長を田中角栄氏から福田赳夫氏に交代させ、内閣の要の官房長官は他派閥(宏池会)の福永健司氏を起用している。岸田首相の場合とよく似ている。【中川佳昭】


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