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自民党スレ

4606チバQ:2020/09/10(木) 17:52:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/970c5e314d92c8ce1bdcf8209f3d71ab70119b9c
自民党総裁選に3度敗れた徳島県人 挑戦の末に
9/10(木) 17:09配信




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68年の自民党総裁選を伝える徳島新聞
 安倍晋三首相の後継を決める自民党総裁選が行われている。その自民党総裁選に3度挑んで敗れた徳島県人がいる。後に首相となる三木武夫氏である。

 三木氏は板野郡御所村(現阿波市土成町)出身。米アメリカン大、明治大を卒業後、1937(昭和12)年の衆院選で初当選。当時30歳で全国最年少だった。以来、19回連続で当選する。

 少数派閥の領袖(りょうしゅう)だった三木氏が最初の自民党総裁選に出馬したのは、68年。安倍首相が連続在職日数を記録するまで歴代最長だった佐藤栄作氏に挑んだ。佐藤氏は現職の首相。三木氏は総裁3選を阻止するため、佐藤内閣の外相を辞任して立候補した。4人中、2位となり、当時の新聞は「三木氏の説く人心一新が党内から意外に多く同調者を集めたことを物語るといえよう」などと伝えている。

 2度目の総裁選は70年。同じく首相だった佐藤氏に挑んだ。大差を付けられた2位だったものの、当時の新聞は「批判票、予想上回る」と記している。

 3度目となった72年の総裁選は、退陣した佐藤氏の後継が争われた。他に田中角栄、福田赳夫、大平正芳各氏が立候補し、田中氏が勝利した。三木氏は4位だった。

 その後、田中内閣が金脈問題で退陣に追い込まれる。後継については当時の副総裁椎名悦三郎氏の裁定に委ねられ、74年12月1日、三木氏が指名された。4日の両院議員総会で選出された後、9日に衆参両院で首相に指名された。

 三木氏がそれぞれの局面で語った言葉が印象深い。過去の徳島新聞によると―。

 1962年に総裁選の出馬の意思を聞かれた際には「男は1度勝負する。勝負の時は近づいている」。総裁選初出馬時には、3選を目指す佐藤を念頭に「人心がうんでは政治の活力は生まれない」と述べている。

 2度目の総裁選出馬表明では「私は何ものも恐れない。ただ大衆のみを恐れる」と決意を示した。総裁選敗退後は「男は何度でも勝負する」。

 椎名裁定で総裁に指名された心境については「青天の霹靂(へきれき)の心境だ。国家、国民のために一身を投げ打つ覚悟がある」。

 政界を揺るがすロッキード事件が国民の関心を集めた時には「たとえ一時政府、自民党が傷ついてもうやむやにする方が日本の民主政治の致命傷になる」「私は政権に恋々とする気持ちはなく、いかなる人物についても究明は徹底的にやる」などと話している。

 76年の退陣表明では「日本の民主政治の健全な発展を目指してただ一筋に歩んできた風雪40年の道を、今後とも不変の情熱を持って歩み続ける決意だ」と語っている。


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