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自民党スレ

41チバQ:2013/10/27(日) 23:20:01
 ■田中派分裂

 田中は大平に続く鈴木善幸、中曽根康弘の総裁選出にも力を及ぼしたが、鉄の結束にも綻(ほころ)びが出始める。「親分」に天下を取らせることが派閥の究極目標とすれば、田中以来、首相を自派から出さずに他派の支援に回るばかりだったため派内に不満が募った。

 鬱積したマグマは60年2月、竹下登による勉強会「創政会」の旗揚げにつながる。公然たるクーデターに激怒した田中は切り崩しにかかるが、同月27日、脳梗塞で倒れ入院した。「田中支配」の終焉(しゅうえん)だった。

 竹下は62年に「経世会」(竹下派)を結成して正式に独立。同年に中曽根政権を継いだ。竹下はリクルート事件で退陣に追い込まれるが、竹下派の勢いが衰えることはなかった。なかでも力を発揮したのが竹下とは姻戚関係にあった金丸信だ。その手法は袂(たもと)を分かった田中と同じだった。

 小沢一郎や橋本龍太郎らとともに「竹下派七奉行」の1人に数えられた渡部恒三(81)は、「海部俊樹内閣の誕生は金丸の一言で決まった」と明かす。女性スキャンダルで短命に終わった宇野宗佑に代わる首相候補を思案していた金丸は、早稲田大学雄弁会で海部と同窓の渡部を自宅に呼んだ。

 「海部の女性関係はどうだ?」。おもむろに切り出した金丸に、渡部が「あいつは女房に頭が上がらない。女房以外は知らない男です」と答えると、金丸は「じゃあ海部でいこう」と即決したという。

 ■竹下派も権力闘争で分裂

 金丸は海部に続く宮沢喜一内閣も自身の主導で誕生させ、党副総裁として影響力を及ぼし続けた。だが、金丸は平成4年10月、東京佐川急便からのヤミ献金疑惑で竹下派会長を退き、議員辞職に追い込まれた。

 金丸の会長辞任後、羽田孜を押し上げようとする「小沢系」と、小渕恵三を担ぐ橋本、梶山静六らの「反小沢系」の派内対立が激化した。結局、小沢系幹部が欠席する中で開かれた最高幹部会で「小渕会長」が決まった。

 竹下派をめぐる「政治とカネ」の問題に世間は厳しい目を向けていた。小沢や羽田、渡部らは「政治改革」を看板に、「改革フォーラム21」を立ち上げる。金権政治との決別が大義名分だったが、渡部は「『政治改革』の裏側は、金丸会長の後継をめぐる派内抗争だった」と打ち明ける。

 宮沢内閣は政治改革関連法案を成立させられず、5年6月、内閣不信任決議が小沢らの造反で可決された。宮沢は衆院解散に踏み切り、小沢らは自民党を飛び出し、新生党を結成した。

 かつての「最強軍団」が与野党に分裂したのを見届けるかのように同年12月16日、田中は静かに入院先で息を引き取った。75歳だった。

 次回は選挙制度改革によって派閥がどう変わったかに焦点を当てる。=敬称略、肩書は当時(力武崇樹)


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