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自民党スレ

404名無しさん:2015/04/05(日) 16:08:35
>>403

■目立たない存在の野球少年だった
目標は「師」と仰ぐ梶山静六(元自民党幹事長)である。

菅は75年に小此木彦三郎(後に通産相)の秘書となった。それが政治の世界のスタートだった。小此木は中曽根派、梶山は田中派と派閥は別だが、初当選が同期で、国対・議運族として呼吸が合った。梶山の長男の梶山弘志(現衆議院国土交通委員長)は、「掛け合い漫才のように、ふざけるのも真面目な話も、いつも一緒だった」と振り返った。

梶山静六は96〜97年、橋本龍太郎首相の下で官房長官を務め、98年の自民党総裁選に出馬したが、小渕恵三(元首相)に敗れた。菅は「梶山の教え」をいまも忘れない。

「自分の思いをきちんと持たなければと教わった。派閥は駄目、と。官僚の使い方とマスコミとの対応も。『官僚は自分たちの考えがあり、政治家に説明するとき、必ずそれを入れてくる。おまえなんかすぐに騙される。それを見抜く力を持たなければ』ときつく言われた。マスコミは『取材するときに最初から一つの方向を決めてくるから気をつけろ』と言っていた」

梶山は成長型社会の終焉という変化に着目し、「右肩上がりだった俺たちの時代と違って、これからはどんどん悪くなる。説明責任を果たせる政治家でなければ」と強く諭したという。

選挙は神奈川県だが、菅の出身は秋田県だ。48年12月に雪深い内陸部の雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)で農家の長男に生まれた。

父・和三郎は戦前、大陸で南満洲鉄道に勤務し、戦後は故郷で農業を営んだ。後にいちごの栽培事業で才腕を発揮し、秋ノ宮農協のいちご組合の組合長や雄勝町議を務めた。菅は秋ノ宮小、秋ノ宮中から県立湯沢高に進む。秋田時代、とくに目立つ子ではなかったようだ。小学校から高校まで一緒で、菅の生家から約1キロの場所で商店を営む伊藤英二が回想する。

「お父さんは豪放磊落で人をぐいぐい引っ張っていく感じだったが、義偉君はみんなをまとめて仲良くさせていくタイプだった。運動神経は抜群で、野球、相撲、水泳、木登り、魚捕りなど、何をやってもうまかった。高校2年まで野球をやっていて、中学校ではサード。野球部を辞めてからは俄然、勉強をするようになった」

旧十文字町(現横手市)の元町長の小川健吉(現十文字リーディングカンパニー社長)も高校の同級生だ。

「冬は湯沢に下宿ですよ。義偉さんは目立たなかった。殻に閉じこもって、自分を出さないでやってきた人じゃないかな。3年生のとき、進学組のクラスだったけど、成績は飛び抜けていたほうではなかったと思う」

元教師の母親の影響もあって、北海道教育大を受験したが、失敗した。

農家を継ぐのが嫌で、単身で東京に出た。段ボール工場で働いた後、築地市場の台車運びなどをしながら、苦学して法政大の法学部法律学科を卒業した。一度、民間企業に就職するが、政治の世界に、と思い立った。


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