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自民党スレ

40チバQ:2013/10/27(日) 23:19:22
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131005/stt13100511000002-n1.htm
【ニッポンの分岐点】
派閥(1)田中派による支配 最大野党も上回る勢力
2013.10.5 11:00 (1/4ページ)

 政権復帰から9カ月がたち、自民党内で派閥の動きが再び活発化してきた。この夏、各派は避暑地などで泊まりがけの研修会を開き、ゴルフや懇親会で結束を固めた。戦後長らく政権の座にあった自民党の歴史は、派閥抗争の歴史といってもいい。なかでも「数は力なり」と膨張し、政局の行方に大きな影響力を行使したのが田中派とその流れをくむ竹下派だった。

 ■「闇将軍」の支配

 「この選挙期間中は全員、田中角栄の秘書だ」

 田中は昭和53年11月、「目白御殿」と呼ばれた東京・目白台の私邸に田中派議員の秘書を集め、だみ声でこう指示を飛ばした。同月末の自民党総裁選を控え、田中は盟友である幹事長、大平正芳支持を打ち出していた。総裁である首相、福田赳夫との「角福戦争」に決着を付けるため、秘書全員に「田中角栄秘書」の名刺を持たせ、総裁予備選の有権者となる全国の党員の家にローラー作戦をかけさせたのだ。

 このとき田中は刑事被告人の身でもあった。51年にロッキード事件で東京地検に逮捕、起訴され、直後に離党し党籍もなかった。世論の批判は強かったが、尋常高等小学校から首相に登り詰めた苦労人の田中に対する党内の人気が衰えることはなかった。

 一軒一軒くまなく回る秘書が「田中角栄の秘書」を名乗れば、「角さんの秘書か。じゃあ、好きなやつの名前を書いていい」と予備選の投票用紙をそのまま渡す党員もいた。田中も市町村長ら各地の有力者に電話し「いやあ、今度は迷惑をかけるが力を貸してくれ」と、大平の支援を依頼した。

 参院議員1期生として自らも東京都内の党員を回った元参院副議長、山東昭子(71)は「どこにでも田中ファンがいた。一軒一軒回るごとに、大平支持が増えていった」と振り返る。

 予備選の結果は、現職で有利とみられた福田が638点にとどまったのに対し、大平は748点。福田は「天の声にもたまには変な声がある」とのせりふを残し、本選を辞退して大平の勝利が決まった。

 総裁の座は大平に移ったが、その立役者はいうまでもなく田中派だった。田中は大平内閣で影響力を維持し続け「角影内閣」と揶揄(やゆ)された。「目白の闇将軍」と称された田中のところには議員が群がった。

 派閥にはカネ、ポスト配分、選挙応援という役割があるが、田中の面倒見の良さは群を抜いていた。最盛期には田中派議員は141人、秘書は約2千人に膨れあがった。

 田中が亡くなるまで秘書を務めた朝賀昭(70)は「人の力になれないやつは政治家になるなとよく言っていた田中先生は、他派閥でも頼られれば面倒を見たし、選挙の手伝いもした。その結果、田中派という自民党内の一つの派閥が、野党第一党の社会党をしのぐ勢力になっていた」と回想する。


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