したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

自民党スレ

3548チバQ:2019/01/25(金) 11:08:59
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi_region/region/mainichi_region-20190123ddlk10040128000c.html
<平成ものがたり>群馬の記憶 第2部/4 衆院 小選挙区導入 旧3区、自民調整難航 3氏がしのぎ、決着に2年半 /群馬
01月23日 00:00毎日新聞

 平成の政治改革の代表的なものとして、衆院の小選挙区導入が挙げられるだろう。平成5(1993)年、リクルート事件など「政治とカネ」の問題で政治不信が深まる中で誕生した細川護熙政権下で導入が決まった。群馬では中選挙区からの区割り変更に伴い、自民党の候補者調整が難航する。特に福田、中曽根、小渕の3氏がしのぎを削ってきた旧3区は決着するのに実に2年半も要した。【増田勝彦】

 中選挙区は一つの選挙区から複数の当選者が出るため、自民党の候補者同士が争い、そこにカネと派閥が幅をきかせる体質が生まれた。

 「サービス合戦と、足の引っ張り合いだった」。中選挙区の旧3区(定数4)時代の様子を古参の自民党関係者は口をそろえて言う。父光平氏の跡を継いだ小渕恵三氏が当選した昭和38年(63)年の第30回衆院選以降は、中曽根康弘氏、福田赳夫氏(平成2=90年=からは息子の康夫氏)が当選を続け、同士打ちの形の自民3陣営にとっては順位争いが選挙での焦点となっていた。

 各選挙事務所には有権者向けの「食堂」ができ、「福田料亭、中曽根レストラン」と称された。福中に比べて資金的に苦しい小渕氏は「ビルの谷間のラーメン屋」と自ら語っていた。

   ◆  ◆

 社会党書記長を務めた山口鶴男氏を加え4氏の「指定席」と言われた旧3区だったが、平成に入りくさびが打ち込まれる。「政治とカネ」問題が政界再編を招き、平成5(1993)年の衆院選で昭和30(55)年から続いた「自民党政権と社会党の野党第1党」の「55年体制」が崩壊。8党派連立の細川政権が誕生すると、平成6(94)年1月に政治改革関連法が成立して小選挙区比例代表並立制の導入が決まり、その10カ月後に区割り法が成立する。

 ここから小選挙区公認の「席取り」が本格化した。中でも激烈を極めたのが4区と5区に分割された旧3区。各陣営は、多くの労力とカネが注ぎ込んで維持、拡大を図ってきた後援会を温存しようと、小選挙区からの出馬にこだわった。タッグを組んで動き始めたのが中曽根と福田の2陣営だった。

 平成7(95)年2月、中曽根後援会の幹部が5区に傾斜する福田後援会の幹部に「中曽根4区、福田5区」の「すみ分け」を持ちかけ、福田後援会が了解した--。当時の毎日新聞はそんな動きを伝えている。

 一方、党副総裁で選挙対策小委員長の立場の小渕氏は出遅れる形となったが、地元の吾妻郡がある5区の公認を目指し、三すくみの状態が続いた。

 最終的に、平成8(96)年7月18日、橋本龍太郎首相(当時)の裁定で、福田氏が4区、小渕氏が5区で決着する。中曽根氏は「終生1位で比例」。この日、高崎市内で開かれた中曽根氏の後援会の会合に加藤紘一党幹事長が駆けつけ、「中曽根さんは国際的に通用する唯一の日本のカード」などと賛辞を贈り、後援者にうずまく不満を収めた。自民党県連も3人が肩を組むポスターを作製し、3陣営の“協調”をアピールした。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板