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石炭・亜炭・炭砿スレ

1とはずがたり:2012/12/17(月) 23:11:36
日本では既に斜陽産業からほぼ過去の産業へとなった石炭関係のスレ。
新技術の可能性や廃炭砿の懐古迄。

5とはずがたり:2013/01/02(水) 21:22:02
『北越製紙百年史』より

戦時下で必要な原材料の確保が次第に難しくなった。

石炭について見ると日中戦争開戦の翌年1938(昭和13)年に配給統制,消費規制が実施され続いて切符制が採用された。
戦争の進展で消費統制は急激に厳しくなりS19年の工場の操業率は50〜30%に低下した。

北越製紙は石炭自給を目指して樺太に関連会社小田洲炭砿を開設するも輸送難から入手困難に。代わりに赤谷鉱業所を開設。しかしこの炭砿も配給統制機関に売り渡しそれを買い戻す等複雑な手続きが必要であった。そこで当時統制外の亜炭を入手するために大横山,山都鉱業所を開設し,石炭・亜炭の混合燃焼への切り替え,各工場相互間での石炭の融通などで操業を維持した。

北蒲原郡赤谷村の赤谷炭砿を買収,昭和17年3月に当社赤谷鉱業所を開設した。同炭砿は炭化が進んでいて選炭の必要がなく,切込炭として平均8,500kcal以上の良質炭を産出した。詳しくはこちらttp://butsuryu.web.fc2.com/hokuetsu.html#3_coal-oil参照。
 当初は石炭を簡易索道によって中間貯炭場へ送り、更にそこから馬によって駅(赤谷線東赤谷駅か?)まで搬出したので、1日当たりの最大搬出能力は40トン未満であった。从って,石炭を増産しても輸送面で制約されるため1943(昭和18)年2月に架空索道の建設許可を受け、また鉄道側線の増設許可も得て戦争末期の1945(昭和20)年2月に完成、同炭鉱からの出炭に役立てた。その後、炭層が枯渇したため、1951(昭和 26)年5月20日に閉鎖した。同炭鉱での操業中の9年間に採掘した石炭の総量は13万9,000トンに達した。(p130)

6とはずがたり:2013/01/03(木) 00:00:17
>>5-6
同炭砿は戦後も操業したが採掘すべき炭層が枯渇したため26年5月20日に閉鎖した。
同炭砿の操業中の9年間に採掘した石炭の総量は13万9,000tに達した。

またS18年末,石炭事情の深刻化に伴い北越製紙は当時は統制外にあった亜炭に注目し,山形県北村山郡大横山村地内の亜炭砿を買収し,次いで隣接の鉱区を買い増し,翌年1月に北越製紙大横山鉱業所を開設,事務所を大石田町に置いた。
 同炭砿は良質な亜炭を埋蔵し,ここで採掘した亜炭は新潟,パルプ両工場へ供給した。
 坑道には断層があって採掘は困難を極め,漸次採炭量も減少,25年7月を以て閉鎖した。この鉱業所での出炭量は2万3,000tで石炭不足時代の補助燃料として北越製紙の各工場の操業を支えた。

 北越製紙の亜炭に関しては,S20.3に福島県耶麻郡山都村地内にある亜炭砿を買収し,山都鉱業所を開設。同炭砿は品質が悪い上,貯水池に妨げられて可採面積に制約があるなど非常に条件が悪かった。結局S23.5に閉鎖した。同鉱業所の出炭総量は4,000tであった。

 同社技術陣はS22.10に亜炭乾留によるコーライトの製造に成功し,当時不足していた家庭用燃料に供した。


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