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石炭・亜炭・炭砿スレ

5とはずがたり:2013/01/02(水) 21:22:02
『北越製紙百年史』より

戦時下で必要な原材料の確保が次第に難しくなった。

石炭について見ると日中戦争開戦の翌年1938(昭和13)年に配給統制,消費規制が実施され続いて切符制が採用された。
戦争の進展で消費統制は急激に厳しくなりS19年の工場の操業率は50〜30%に低下した。

北越製紙は石炭自給を目指して樺太に関連会社小田洲炭砿を開設するも輸送難から入手困難に。代わりに赤谷鉱業所を開設。しかしこの炭砿も配給統制機関に売り渡しそれを買い戻す等複雑な手続きが必要であった。そこで当時統制外の亜炭を入手するために大横山,山都鉱業所を開設し,石炭・亜炭の混合燃焼への切り替え,各工場相互間での石炭の融通などで操業を維持した。

北蒲原郡赤谷村の赤谷炭砿を買収,昭和17年3月に当社赤谷鉱業所を開設した。同炭砿は炭化が進んでいて選炭の必要がなく,切込炭として平均8,500kcal以上の良質炭を産出した。詳しくはこちらttp://butsuryu.web.fc2.com/hokuetsu.html#3_coal-oil参照。
 当初は石炭を簡易索道によって中間貯炭場へ送り、更にそこから馬によって駅(赤谷線東赤谷駅か?)まで搬出したので、1日当たりの最大搬出能力は40トン未満であった。从って,石炭を増産しても輸送面で制約されるため1943(昭和18)年2月に架空索道の建設許可を受け、また鉄道側線の増設許可も得て戦争末期の1945(昭和20)年2月に完成、同炭鉱からの出炭に役立てた。その後、炭層が枯渇したため、1951(昭和 26)年5月20日に閉鎖した。同炭鉱での操業中の9年間に採掘した石炭の総量は13万9,000トンに達した。(p130)


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