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Airline & Airport(航空会社・航空路線・空港)スレ

7169チバQ:2021/04/26(月) 11:47:50
瀬戸内海路線を開拓 ビジネス需要も取り込み躍進

日東航空が用いたG-73「マラード」。マラードとは真鴨のこと(画像:JAL)。
 これに味をしめたのかわかりませんが、日東航空は1957(昭和32)年に大阪〜徳島線、1959(昭和34)年には大阪〜新居浜(愛媛県)線と、瀬戸内海へ次々に水上飛行機の路線を開設していきます。

 なお徳島や新居浜は、ともに大企業の工場が居並ぶ土地柄であるため、白浜線とは異なりビジネス客が多くを占めました。

 しかも、同社は勢いに乗って機材の増強も行います。まず1958(昭和33)年に、デ・ハビランド・カナダDHC-3「オッター」1機を購入。「オッター」はカナダ製の11人乗り単発プロペラ水上機で、脚には大きなフロート(浮舟)を着けていました。ちなみに日東航空は、「オッター」では「墜ちたー」につながり縁起が悪いという理由から、あえて「アッター」と呼んだそうです。

 1959(昭和34)年にはグラマンG-73「マラード」も導入しています。「マラード」はアメリカ製の10〜12人乗り、双発プロペラの水陸両用飛行艇です。日東航空では4年かけてアメリカの中古機市場で5機調達し、同社の主力旅客機として運用しました。

 日東航空は、ほかにも補助機材として5人もしくは6人乗りの双発プロペラ飛行艇マッキノン「スーパーウィジョン」を1機購入しており、合計で8機もの水上飛行機を持つ異色のエアラインとなりました。なお、この頃、大阪の拠点を堺から大阪国際空港(伊丹)へ移しています。

 そして好景気とレジャーブームの後押しを受け、日東航空はさらに路線網を広げます。

 人気の大阪〜白浜線を、串本〜志摩経由で名古屋(現在の県営名古屋空港)まで延長して“紀伊半島一周線”を開設。これに刺激を受けたのか、ヘリコプター事業で有名な中日本航空がグラマンG-21A「グース」飛行艇で名古屋〜串本路線へ参入したほどなので、いかに当時の水上機路線が人気を集めたのかがうかがえます。
ローカル航空会社ゆえの悲しい幕引き

日東航空の後身、日本国内航空時のマッキノン「スーパーウィジョン」(画像:JAL)。
 1962(昭和37)年、日東航空は大阪〜新居浜線を日本有数の観光地である大分県別府まで延長。これにより同路線は、ビジネス客に加えて行楽客も利用するようになり、混雑する人気路線となりました。

 瀬戸内海や紀伊半島の景色を高度2000m弱の空から楽しみ、着水して迎えのモーターボートに乗り換えればそこは目的地。その優雅さは想像するだけでも楽しい気分にさせられます。

 しかしその栄華は長く続きませんでした。日東航空などの中小エアラインは、収益性が低いローカル航空のため経営が不安定でした。加えて機材も中古機が多く、当時の地方空港は設備が不十分なこともあり事故が多発します。

 日東航空でも1963(昭和38)年に「オッター」が、1964(昭和39)年には「マラード」が相次いで墜落。いずれも多くの死傷者を出しています。特に「マラード」の事故は、海水で傷みやすい中古水上機の問題点が露呈したものでした。

 その結果、1964(昭和39)年、運輸省(現・国土交通省)の指導で日東航空は、北日本航空、富士航空の2社と合併し「日本国内航空」へと生まれ変わります。なお、同社はその後、東亜国内航空を経てJAS(日本エアシステム)に姿を変え、JALグループへ統合されました。

 日本国内航空が誕生すると、日東航空時代に購入した水上飛行機は経済性が悪く、加えて各地に空港が整備されたことで必要性も薄れたなどの理由から、1966(昭和41)年頃までに姿を消しました。

 冒頭の「せとうちSEAPLANES」以外にも、日本では国産のUS-2救難飛行艇を転用した旅客飛行艇による小笠原諸島 父島への航空路開設などで水上飛行機が時折、話題に上がります。60年前の人々が楽しんだ水上飛行機による優雅な海と空の旅。また楽しめる日が来るのを筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)は静かに願います。
リタイ屋の梅(メカミリイラストレーター)


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