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Airline & Airport(航空会社・航空路線・空港)スレ

5453チバQ:2015/08/04(火) 19:28:25
 ◆重たい教訓

 時代の流れとともに過激派のゲリラやテロに対する社会の風当たりは厳しくなる一方、成田空港は「日本の表玄関」として発展を続けた。

 2本目の滑走路の建設では、空港公団の後継組織である成田国際空港会社(NAA)が、地域住民との話し合いによる問題の解決と共生に力を注ぎ、2本目の滑走路はサッカー日韓ワールドカップ直前の14年4月に供用を開始することができた。2本の滑走路の発着回数は、26年度は約22万8千回。利用者数は3500万人を超える。

 今年2月には空港建設で昭和46年9月に強制収用されて以来、約43年間補償されないままになっていた故小泉よねさんの宅地などについて、NAAが遺族の補償に応じることで合意し、国や県とともに謝罪した。5月にはB滑走路南側の進入灯に隣接する土地の所有者との間で売買契約が締結された。

 さらに7月31日には、地元経済界などが要望してきた第3滑走路建設について、国土交通省の田村明比古航空局長が「成田国際空港推進議員連盟」の総会で前向きな姿勢を表明。新しい時代に向けて状況はなお動き続けている。

 当初、農民らの反対運動を応援した元社会党県議の小川国彦氏(82)は、国会議員を経て平成7年に成田市長に就任。その後は成田空港を生かした地域発展を目指し、反対派の説得に回った。「膝をつき合わせて話すと『このまま反対し続けていいのか』と悩む住民もいた」と状況の変化があったことを明かした上で、こう指摘する。

 「国や県、空港側はなぜ最初から話し合いで解決を図らなかったのか。反対派への説明が不十分で、強制的に排除しようという行動が結果的に反対派を過激化させた。成田闘争はそれまで強制的に進めることが当たり前だった公共事業のあり方を一変させた」

 ゲリラやテロは断じて許せるものではない。ただ、この言葉の通り、十分な説明を行わないまま強制的な手続を進めたことで、事態が混乱したことも事実だ。成田闘争が現代に伝える教訓は重い。(大島悠亮)

                   ◇

【開港後の成田空港と成田闘争の歩み】

 昭和53. 5.20 滑走路1本で“出直し開港”

   58. 3. 8 反対同盟が熱田派と北原派に分裂

   61.11.26 2期工事着工

   62. 9. 4 北原派から小川派が分裂

   63. 9.21 小川彰県収用委員会会長が中核派に襲撃され重傷

 平成 2.11. 1 熱田派農民も加わった「地域振興連絡協議会」発足

    3. 5.28 国側が強制収用放棄を確約

      11.21 「成田空港問題シンポジウム」始まる

    4.12. 6 第2旅客ターミナルビルが開業

    5. 5.24 15回目の同シンポで(1)収用裁決申請取り下げ(2)国が過去の行為を反省し、平行・横風用滑走路建設計画の白紙撤回(3)新しい協議の場設置-の所見を国が受け入れる

       6.16 空港公団がすべての未買収地の収用裁決申請を取り下げ

       9.20 新しい協議の場として「成田空港問題円卓会議」が開始

    7. 1.10 小川派の小川喜平さんが首相と運輸相に謝罪を求める手紙を送る。運輸相から謝罪の返書を受け、小川さんらは後日反対運動終結を表明

   14. 4.18 暫定平行滑走路の供用開始

   16. 4. 1 成田空港会社発足。空港名を「新東京国際空港」から「成田国際空港」に変更

   21.10.22 2500メートルB滑走路供用開始

   23. 8. 6 東京高裁判決に基づく強制執行で天神峰現地闘争本部を撤去

   27. 2. 3 小泉よねさんの宅地、NAAが遺族と補償合意

       4. 8 LCC向け新旅客ビル「第3旅客ターミナル」開業


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