したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

Airline & Airport(航空会社・航空路線・空港)スレ

5451チバQ:2015/08/04(火) 19:27:28

 ◆富里案が頓挫

 成田・三里塚に新空港建設案が浮上したのは41年だった。それまで政府が掲げていた、富里村(現富里市)での建設案が住民の反対で頓挫し、代わりの建設地として名前が挙がった。

 地元の反対派の農民は富里案だった時代も含め、当初は合法的な運動を展開していた。反対派の農民を応援していた社会党(現社民党)の元県議で後に成田市長となる小川国彦氏(82)は「富里案のころ、富里から県庁(千葉市)まで耕運機でのろのろ運転するデモをやったが、ちゃんと許可をとった。あくまで平和的な話し合いで解決を図ろうとしていた」と振り返る。

 反対派には社会、共産両党が協力的だった。だが、42年から過激派が運動に加わったことで大きな転換点を迎える。過激派が加わった理由について、公安調査庁は平成5年4月にまとめた「成田闘争の概要」でこう分析している。

 「地元住民は反対運動を党勢拡大に利用しようとして対立を深める両党に不信感を強め、反対闘争を支援する団体を党派を問わず受け入れる態度をとり、過激派集団が乗り込んで来ることになった」

 ◆過激派が結集

 昭和42年ごろには条件付きで新空港建設の賛成に回り、空港側と交渉のテーブルに着く地元農家も増えつつあった。一方で、「絶対反対」の農民らは三里塚芝山連合空港反対同盟に結集し、マル学同中核派や社青同解放派、社学同の3派を中心に構成する三派系全学連といった過激派学生組織からの支援を受けた。過激派は現地に団結小屋を建て、地元反対派の養子になるなどし、着実に地域に根を張った。用地交渉に来た空港公団の職員らを襲撃するといった暴力行為も繰り返した。

 社会、共産両党は反対運動から距離を置くようになる。小川氏は「平和的に進めたかったが、反対同盟の集会にも必ず過激派が来ていた。彼らに集会であいさつはさせなかったが、『実力辞せず』の闘争になることを避けられなかった」とつぶやいた。

 次第に暴力闘争は本格化し、開港に至るまでの経過で46年9月に神奈川県警の機動隊員3人が過激派から襲撃を受けて死亡した東峰十字路事件が発生するなど、成田闘争は流血の歴史をたどった。 (大島悠亮)

                   ◇

【開港までの成田空港と成田闘争の歩み】

昭和37.11.16 池田勇人内閣が新国際空港建設の方針を閣議決定

  40.11.18 関係閣僚懇が富里への建設を内定。地元で反対運動激化

  41. 7.4 佐藤栄作内閣が三里塚への建設を閣議決定

      8.22 三里塚芝山連合空港反対同盟(戸村一作委員長)結成

  42. 9.1 三派系全学連が反対同盟支援を開始

  44.12.16 建設省(当時)が土地収用法に基づく事業認定告示

  46. 2.22 第1次代執行(強制収用)開始

      9.16 第2次代執行開始。機動隊員3人死亡(東峰十字路事件)。民家(故小泉よねさん宅)や社会党国会議員の一坪共有地など収用

     10.1 反対同盟青年行動隊員が空港建設に抗議して自殺

  52. 5.6 開港の障害だった岩山鉄塔を千葉地裁の仮処分で撤去

      5.8 機動隊と反対派の衝突で支援活動家が重体。2日後死亡

      5.9 芝山町長宅前の臨時派出所に報復ゲリラ。警察官6人重軽傷。うち1人が12日後に死亡

  53. 3.26 過激派が管制塔占拠、破壊。3月30日の開港延期。自分の火炎瓶で火だるまになった活動家が6月13日死亡

      5.13 過激派の拠点撤去などを定めた「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」(成田新法)施行

      5.20 滑走路1本で“出直し開港”


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板