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Airline & Airport(航空会社・航空路線・空港)スレ
3579
:
チバQ
:2012/05/06(日) 20:15:45
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20120424ddlk40010405000c.html
北九州市50年ものがたり:第3部・交通と街(続編)/1 旧空港で定期便再開 霧で欠航相次ぐ /福岡
毎日新聞 2012年04月24日 地方版
70年代に急増した航空需要はその後も伸び、空の旅は大きなウエートを占めるようになった。一方、市民生活に密着したモータリゼーションの波に道路や橋の整備も着々と進んだ。「交通と街」の続編として空港や橋、道路、渡船の歴史と市民生活との関わりを振り返る。【松田幸三】
「空の足に空白を作ってはならない」。91年3月、小倉南区曽根の旧北九州空港の定期便再開には「当時の末吉興一市長をはじめ行政や各界の強い思いがあった」。再開前後に北九州市新空港対策室の次長、室長を務めた現・門司港開発社長、奥野照章さん(69)は語る。
既に苅田町沖の新空港計画が動き出している中で旧空港を整備することは「新空港の計画に水を差しかねない」という心配があった。だが、新空港の完成は10年以上も先。「空白をつくるな」との方向で国、市とが一致した−−と奥野さん。
戦時中の1944年に陸軍曽根飛行場として建設された旧北九州空港。戦後、米軍が接収したが、53年の接収解除後は民間飛行場となり大阪、東京行きの民間機が飛ぶようになった。ただし滑走路はわずか1500メートルしかなく、ジェット旅客機には対応できない。この間、75年に国鉄が山陽新幹線を小倉、博多まで延伸。大阪へは新幹線を使う人が増え、旧空港の利用者が減った結果、大阪便は83年に運休に追い込まれ、旧空港の定期便はいったん途絶えた。
一方で福岡市は新幹線の終着駅・博多を抱えるだけでなく、市街地の中に空港を持ち、発展を続けていた。北九州市にも空の玄関が何としても必要だった。そこで新空港までのつなぎ役として、旧空港の滑走路をかさ上げし100メートル延長。1600メートルとして91年、定期便再開にこぎ着ける。日本エアシステム(02年に日本航空と経営統合)が、羽田間にジェット機の定期便を飛ばすことになった。
戦時中の1944年に陸軍曽根飛行場として建設された旧北九州空港。戦後、米軍が接収したが、53年の接収解除後は民間飛行場となり大阪、東京行きの民間機が飛ぶようになった。ただし滑走路はわずか1500メートルしかなく、ジェット旅客機には対応できない。この間、75年に国鉄が山陽新幹線を小倉、博多まで延伸。大阪へは新幹線を使う人が増え、旧空港の利用者が減った結果、大阪便は83年に運休に追い込まれ、旧空港の定期便はいったん途絶えた。
一方で福岡市は新幹線の終着駅・博多を抱えるだけでなく、市街地の中に空港を持ち、発展を続けていた。北九州市にも空の玄関が何としても必要だった。そこで新空港までのつなぎ役として、旧空港の滑走路をかさ上げし100メートル延長。1600メートルとして91年、定期便再開にこぎ着ける。日本エアシステム(02年に日本航空と経営統合)が、羽田間にジェット機の定期便を飛ばすことになった。
戦時中の1944年に陸軍曽根飛行場として建設された旧北九州空港。戦後、米軍が接収したが、53年の接収解除後は民間飛行場となり大阪、東京行きの民間機が飛ぶようになった。ただし滑走路はわずか1500メートルしかなく、ジェット旅客機には対応できない。この間、75年に国鉄が山陽新幹線を小倉、博多まで延伸。大阪へは新幹線を使う人が増え、旧空港の利用者が減った結果、大阪便は83年に運休に追い込まれ、旧空港の定期便はいったん途絶えた。
一方で福岡市は新幹線の終着駅・博多を抱えるだけでなく、市街地の中に空港を持ち、発展を続けていた。北九州市にも空の玄関が何としても必要だった。そこで新空港までのつなぎ役として、旧空港の滑走路をかさ上げし100メートル延長。1600メートルとして91年、定期便再開にこぎ着ける。日本エアシステム(02年に日本航空と経営統合)が、羽田間にジェット機の定期便を飛ばすことになった。
再開初日の3月27日は雨だった。滑走路拡張の完工式や新ターミナルビルの開館式も終えていた。管制官の濱田治樹さん(56)は、管制塔で羽田からの第1便を待ったが「飛行機は降りてこずに悔しい思いをした」。当日は霧でパイロットが着陸を断念、福岡空港へ向かったのだ。
三方を山に囲まれた旧空港はしばしば霧に悩まされた。「いつも天気が心配だった」と濱田さん。やむを得ず福岡に着陸すると乗客をバスで北九州まで運ぶ。北九州から飛べずに福岡までバスで送ることもあり、航空会社には負担となる。新空港建設は急務だった。
〔北九州版〕
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