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近畿 地方議会・首長,政治・選挙スレ

3219チバQ:2013/10/08(火) 20:45:46
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/feature/kobe1380638857862_02/news/20131003-OYT8T01357.htm
助役市長64年 神戸の系譜 一
震災後も空港建設推進  住民反対運動押し切り


テープカットをして祝う神戸市の関係者ら。大きな期待が寄せられる中で神戸空港は開港した(2006年2月撮影、神戸市中央区で) 神戸市の象徴だった「開発行政」は1990年代になるとその雲行きが怪しくなる。大きな要因はバブル経済の崩壊による不況。そして、95年1月の阪神大震災だ。

 そんな不景気の頃、「神戸で一番熱かった夏」と呼ばれた年がある。神戸空港建設の是非を問おうと、市民団体が住民投票条例制定を市に求めるために取り組んだ署名運動が大きな盛り上がりを見せた98年を指す。

 「神戸最大の市民運動だった」。県震災復興研究センター事務局長で、署名活動を取り仕切った市民団体「神戸空港・住民投票の会」(解散)のメンバーだった出口俊一(65)はあの異様な熱気を鮮明に覚えている。「震災で街が壊滅し、市財政も悪化した。そんな中で神戸空港の建設を進めるという市のやり方に黙っていられなかった」



 98年8月から、「大事なことは市民で決めよう」を合言葉に署名運動が始まった。瞬く間に市内全域に浸透。駅前や集会所など至る所で繰り広げられた。9月20日までの1か月間で35万3525人分が集まった。市内の全有権者数の3割にも達する署名の束を手に、同会は市長の笹山幸俊(かずとし)に条例制定を迫った。

 その年の11月、条例案を審議する臨時市議会が開かれた。本会議の議案説明で笹山は「構想段階ならともかく、空港推進を決定している今では、条例制定の必要はない」と述べた。空港建設推進派が多数を占めた市議会は条例案を否決。住民運動の大きなうねりは泡のように消えた。出口は「あれだけ頑張ったのに何も変わらなかったという無力感だけが残った」とため息混じりに振り返った。



 「株式会社神戸市」の最大の事業は、3140億円を投じた神戸空港の建設。始まりは、69〜89年に市長を務めた宮崎辰雄の時代に遡る。

 当初、神戸空港は「関西国際空港」になる可能性が高かった。運輸省(現・国土交通省)が神戸港沖を有力地と考えていたからだ。宮崎も当然、前向きに検討していた。だが、騒音などの公害を懸念する声が広がると、73年3月の市議会で一転、空港建設反対を表明した。

 しかし、それから9年後の82年3月。開発行政で成功を収めた宮崎は態度を翻し、再び神戸港沖の空港建設を声高に主張した。結局、関空は大阪府・泉州沖に決まったが、六甲山を削って海上に造成した人工島・ポートアイランドに代表される神戸の「成功体験」を知る宮崎は計画を中止することなく、推し進めた。

 笹山と近かった元保健福祉局長の桜井誠一(63)は「神戸空港は宮崎さんの悲願。笹山さんも当然、造るべきだという考えだった。どれだけ住民運動が盛り上がっても変わらなかった」と打ち明ける。出口は「笹山さんは自分が仕えた『上司』を否定することができなかっただけだ」と話した。

 条例案否決から1年後の99年。ポートアイランド南側に神戸空港の建設が始まった。広さ272ヘクタールで甲子園球場の約70個分に相当。7年の歳月を重ね、2006年に開港した。だが、発着枠や運用時間で規制をかけられ、利用客数は開港前の需要予測を下回り続ける。空港事業に使った借金にあたる市債は、12年度末で1224億円も残っている。(敬称略)

(2013年10月4日 読売新聞)


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