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西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

2とはずがたり:2006/12/02(土) 18:09:18

こんな事迄解るのか。凄いね。

ダ・ビンチの母はアラブ人?指紋分析で判明
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061202-00000503-yom-soci

[ローマ支局] イタリア中部キエーティ大の人類学研究所は2日までに、レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の左手人さし指の指紋を特定したと発表した。

 指紋には、唾液(だえき)も付着していると見られ、前夜に食べた料理の内容が解明できるほか、ダ・ビンチの祖先について調べる手がかりともなるという。

 AP通信によると、同大の研究チームは、ダ・ビンチが残した52枚の書類などから約200点の指紋を写真撮影。それらを約3年にわたり分析・調査し、ダ・ビンチの指紋を割り出した。

 研究チームは、ダ・ビンチの指紋が「アラブ人の指紋の60%に見られる形状だ」と指摘し、ダ・ビンチの母親が中東系だった可能性があるとしている。
(読売新聞) - 12月2日13時29分更新

3とはずがたり:2006/12/04(月) 01:59:08
中世ヨーロッパが決して追い越せなかった,その癖自分らがその正統な後継者であると僭称するギリシャ・ローマの古典古代である。

1901年発見ナゾの構造物、紀元前2世紀の計算機だった!
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_12/t2006120117.html

 ギリシャ南部アンティキチラ島沖で見つかった紀元前2世紀のものとみられる青銅製の塊が、足し算や掛け算などの四則計算ができる精巧な装置だったことが1日までに分かった。英国の研究者は「世界最古の計算機と言えるかもしれない」と話している。

 ロイター通信によると、装置は月食や日食がいつ起きるかや、月と太陽の位置も予測。これを上回るほど精巧な装置は1000年以上、発明されなかったという。

 装置は1901年に沈没船から発見。歯車でつくった複雑な構造物であることは分かっていたが、用途は謎のままだった。ギリシャと英米両国の科学者らが高解像度のエックス線撮影で内部構造を分析、断片を組み合わせ復元に成功した。

 復元に携わった英カーディフ大のマイク・エドムンズ教授はロイター通信に「こんな精巧な装置をつくっていたとは驚きだ」と話した。(共同)

ZAKZAK 2006/12/01

4とはずがたり:2007/01/13(土) 21:02:44
2006年3月 7日 (火)
世界史レッスン
似たもの王妃 1819年
http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/03/post_2a49.html
〜アントワネット没後26年〜

5とはずがたり:2007/01/17(水) 03:52:08
フランスの戦後共和制を一貫して支配した意識は不安と懼れであったように思う。

2007/01/15-23:07 仏首相、英国との合併を提案=50年代、スエズ危機などが背景−機密文書
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2007011501003

 【ロンドン15日時事】フランスのギー・モレ元首相が在任中の1950年代、英国のアンソニー・イーデン首相(当時)に対して両国の合併を提案していたことが、英機密文書で明らかになった。BBC放送が15日報じた。
 それによると、モレ氏は56年9月10日にロンドンを訪れ、エリザベス英女王を元首として両国を統一する案を打ち明けた。同氏は、英国による第1次、第2次両大戦の功績、福祉国家を確立させたことを称賛するなど「英国びいき」だったという。
 BBCは、仏政府が当時、激化するスエズ危機への対応に追われていた上、国内ではエジプトのナセル大統領(同)が支援するアルジェリアの分離独立の脅威にさらされていたことを挙げ、モレ氏は、英国と強力な「対ナセル体制」構築を希望していたと分析している。

6とはずがたり:2008/01/15(火) 11:50:26
イタリア軍はなぜ弱いのか?
http://2chart.fc2web.com/itaria.html

7とはずがたり:2008/01/15(火) 11:52:54
>>6
おもろい。何処迄裏取れる事実なんでしょーかね。

真面目なドイツ人と日本人が戦争するから悲惨な事になるんだ。
皆イタリア人の不真面目さを見倣わないとあかんね。

8とはずがたり:2009/02/06(金) 20:18:48
オランダ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B7%8F%E7%9D%A3

オランダ総督(オランダそうとく、蘭:stadhouder, 英:stadtholder)は16世紀?18世紀のネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の前身)における各州の首長。狭義にはその中でも特に有力なホラント州の総督(ゼーラント州など他の州の総督も兼ねた)を指す。しかしながらヨーロッパにおける称号で日本語で総督の訳語を充てるのは、植民地の長官を表す例が多く、オランダ総督はそれとは異なる存在であるため、「総督」ではなく「統領」と訳される場合もある。

もとは15世紀以降、ネーデルラント17州を統治していたハプスブルク家の君主が、有力なネーデルラント貴族を(本来の意味での)総督(あるいは知事)に任命し、各州の統治を委ねたことが起源である。ネーデルラント随一の貴族であり、後に八十年戦争を主導したオラニエ公ウィレム1世も、はじめはスペイン王フェリペ2世によって総督に任じられていた。

1568年に始まる八十年戦争でネーデルラント各州はフェリペ2世に対し反乱を起こし、やがて北部7州は新たな君主を戴くことなく連邦共和国として独立を果たした。連邦共和国の体制においては、7つの州の議会それぞれが君主に代わって自ら総督を指名した。総督は州の首長として議会を主導し、法の執行を監督し、役職者の任免を行なった。総督の地位は初期を除けばほとんどオラニエ=ナッサウ家の当主であるオラニエ公、およびその傍系ナッサウ=ディーツ家の世襲であった。ウィレム1世以来歴代のオラニエ公のほとんどは、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4〜5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はウィレム1世の弟ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の家系であるナッサウ=ディーツ家が占めた。ホラント州とゼーラント州の総督(ウィレム1世以来常に兼任された)は慣習的に連邦議会から陸海軍総司令官にも任命されており、その権力は大きく、実質的に君主に近い存在であった。

こうした総督=オラニエ公の権勢に対して反発する勢力もあり、イングランド王を兼ねたウィレム3世の総督時代(1672年 - 1702年)を挟んで1650年から1747年の間に、2度にわたって主要な州で総督を置かなかった時代があり、無総督時代と呼ばれる。しかし1747年、オーストリア継承戦争に巻き込まれてフランス軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ウィレム4世を7州全ての総督に指名し、その地位の世襲を宣言した。この全州総督の地位はウィレム5世に継承され、フランス革命戦争の中で連邦共和国が崩壊する1795年まで続いた。

マウリッツ (オラニエ公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%A8%E5%85%AC)

マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公マウリッツ、Maurits van Nassau-Siegen, Prins van Oranje, 1567年11月13日 - 1625年4月23日)は、オランダ総督。オラニエ公ヴィレム1世の次男で、父の死後、スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たした。
 死に臨んで、「2プラス2は4である。」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされる。また、自らの軍隊に徹底した訓練を行うとともに、そのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから、「軍事革命」とも評価される。

日本との交渉
1609年(慶長14年)日本(江戸幕府)に進出したオランダ東インド会社はマウリッツをオランダ「国王」とする書簡を駿府で前将軍(大御所)徳川家康に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督を「国王」とするフィクションを維持することになる。

9とはずがたり:2009/02/06(金) 20:40:48
オラニエ=ナッサウ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%A8%EF%BC%9D%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%B5%E3%82%A6%E5%AE%B6

オランダ総督からオランダ国王へ

オラニエ公ウィレム1世は八十年戦争において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献した。ウィレム1世と兄に協力したナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンおよび彼らの子孫は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会あるいは連邦議会が任命する総督(統領)職をほとんど世襲し、君主に近い地位を占めた(歴代のオラニエ公は、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4〜5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はヨハンの家系が占めた)。総督・オラニエ公ウィレム3世が名誉革命によりイングランド王位につくと、1代限りではあったが両国は事実上の同君連合を組んだ。ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位を世襲することが公式に認められた。

フランス革命が起こるとオランダにも余波は及び、フランス軍の侵攻を受けて連邦共和国は崩壊し、ウィレム5世は総督の座を追われた。すでにオラニエ=ナッサウ家と共和国の政治体制に対して国民の不満が渦巻いており、フランスの侵攻はオラニエ=ナッサウ家追放の絶好の機会であった。以後ナポレオン1世の没落まで、オランダはフランスの支配を受けた。当初フランスは解放者として受け入れられていたが、ナポレオンがフランス皇帝となると、次第に不満が募って行き、オラニエ=ナッサウ家の復権の機会を与えてしまう事となった。

ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨し、現在に至っている。なお、南ネーデルラントは1830年にベルギー王国として独立した。また、オランダ王はルクセンブルク大公を兼ねていたが、1890年に同君連合を解消し、ルクセンブルク大公はナッサウ家の別系統であるナッサウ=ヴァイルブルク家が継承した

10とはずがたり:2009/03/14(土) 21:29:01

シリアで9000年前の井戸発見 浄水目的は世界最古か
03/14 12:47
http://www.shizushin.com/news/environment/science/2009031401000195.htm

 シリア北東部の新石器時代の集落遺跡「テル・セクル・アルアヘイマル」で約9000年前に使われていた井戸の遺構を、東大総合研究博物館の西秋良宏教授(先史考古学)らのグループが14日までに発見した。飲料水など「浄水」が目的とみられ、西秋教授によると、この目的の井戸としては世界最古の可能性がある。同グループは「人類の衛生概念の発展を示し貴重」としている。
 グループによると、9000年以上前の井戸の発掘例は世界でわずかしかなく、浄水を得ようとした井戸では約8000年前の古代パレスチナ地方のものが最古とされていたという。
 井戸は昨年8月、約4ヘクタールの集落跡北部で発見。直径約2・5メートル、深さ約4メートルで、底部には儀礼に使われたと推察される直径10−20センチの円形の石器10数個が置かれていた。遺構の約100メートル先にユーフラテス川の支流があることから、単に水を得ようとしたのでなく、浄水を求めたと判断した。
 人類が農耕・牧畜で定住化を進めた約9000年前の北メソポタミア地域では、住居の床を入念に掃除した跡が見られるなど、衛生概念が発展しつつあったといい、西秋教授は「集落の人口が増え、疫病などを恐れ、きれいな水を入手しようとしたのではないか」と話している。(共同)

11とはずがたり:2009/12/21(月) 11:23:02
地中海世界更には印度欧羅巴語族の範囲も西洋としよう。

発掘:粘土塊にくさび形文字…ハンムラビ王時代の「封泥」
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/11/16/20091117k0000m030037000c.html

テル・エル・ダバ遺跡で発見された、バビロニアの印影が残る粘土塊=エジプト考古最高評議会提供
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/kodai/TKY200812100199.jpg

 【カイロ和田浩明】バビロニア(現在のイラク中・南部)のハンムラビ王(在位紀元前1792〜1750年)に仕えた高官の印影が残る粘土塊を、オーストリアの研究チームがエジプト北部のテル・エル・ダバ遺跡で発掘した。エジプト考古最高評議会が15日発表した。バビロニアのくさび形文字アッカド語が使用されており、「エジプトで発見されたものでは最古」(同チーム)という。

 粘土塊は、物資の数量管理などに使用された「封泥」で、物資を入れた箱やつぼなどの入り口に付けられたとみられる。同評議会は「バビロニアからの交易品か贈り物の封印ではないか」と推定している。

 ハンムラビ王は世界最古の法典の一つと言われる「ハンムラビ法典」を整備した。テル・エル・ダバ遺跡はカイロ北東約120キロのナイル川三角州にあり、紀元前18世紀ごろから約100年間エジプトを支配した「ヒクソス」と呼ばれるアジア系異民族の拠点だったとみられている。

 オーストリアの研究チームは今回の発見について「ヒクソスが広範な対外関係を持っていた証拠だ」と説明している。

毎日新聞 2009年11月16日 19時42分(最終更新 11月17日 2時47分)


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