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スポーツ総合スレッド

867チバQ:2010/04/21(水) 21:42:43
功罪ある方ではありますが。黙祷
http://mainichi.jp/select/person/news/20100422k0000m040078000c.html
サマランチ前会長:死去89歳 IOCで五輪の商業化推進

 1980年から21年間、国際オリンピック委員会(IOC)会長を務め、五輪の商業化やプロ選手の参加などを推し進めたフアン・アントニオ・サマランチ前会長が21日、心臓疾患のため、スペイン・バルセロナ市内の病院で死去した。89歳だった。

 バルセロナ出身。金融など実業家として地位を高め、フランコ独裁政権のもとでスポーツ官僚として活躍。駐モンゴル、駐ソ連大使なども務めた。66年からIOC委員となり、理事、副会長を経て、80年7月のIOC総会で第7代会長に当選した。

 就任後、最初の夏季大会となった84年ロサンゼルス五輪では大会組織委員会が世界的なスポンサー制度を導入し、財政難からの脱却に成功。これをきっかけに五輪の商業化を進めた。また、「五輪は最も優れた選手が競う場」と主張し、92年バルセロナ五輪ではプロ選手の参加を全競技に拡大した。

 しかし、五輪が巨額の利益を生むイベントとなったことで弊害も生まれた。98年長野、02年ソルトレークシティー五輪の招致をめぐっては、IOC委員にわいろが渡された疑惑が浮上。99年のIOC総会では6人の委員が除名され、自身も信任投票を受けた。

 01年に会長職を退き、終身名誉会長に就任。16年夏季五輪の開催地を決めた昨年10月のIOC総会には、立候補していたマドリード(スペイン)の応援演説に立ち、得票につなげる影響力を見せた。【百留康隆】

毎日新聞 2010年4月21日 21時09分(最終更新 4月21日 21時16分)

http://mainichi.jp/select/person/news/20100422k0000m040084000c.html
サマランチ前会長:商業主義功罪相半ば 「国変わる」持論

インタビューに応じるフアン・アントニオ・サマランチ氏=2004年3月、滝口隆司撮影 五輪の商業化やプロの参加を推し進め、世界のスポーツ界に多大な影響を与えた国際オリンピック委員会(IOC)の前会長、フアン・アントニオ・サマランチ氏(89)が21日、亡くなった。

 毎日新聞との単独インタビューに応じたのは、アテネ五輪を前にした04年3月初めだった。サマランチ氏の地元であるバルセロナのビジネス街にある高層ビルの22階の役員室。サマランチ氏は銀行の役員におさまっていた。会長を退いて3年、現在の五輪をどう見ているかを聞いた。

 「五輪で国や街は変わる。巨額の資金が投入され、20年も25年もかかる都市の発展が、五輪という名のもとに一気に実現する。64年の東京五輪もそうだ。新幹線が開通し、東京にも日本にもプラスになったはずだ」

 インタビューの時間はわずか30分だったが、サマランチ氏はゆっくりとした口調で持論を展開した。「現在の五輪にネガティブな面を私は見ない。五輪が多大な利益をもたらすことに世界の都市は気づいている。ニューヨークもロンドンもパリも、だ」「五輪は経済的な見返りを得られるサイクルを生み出した。われわれは優秀な選手を集め、参加させることに成功した」

 そんな中で一つ、興味深い言葉を吐いた。その年の夏に五輪を開くアテネへの思いだった。「ギリシャに対しては借りがある。第1回大会を開いた1896年以来、五輪発祥の地であるギリシャの人々はこの日を待ち望んでいただろう」。借りとは何なのか? サマランチ氏は答えた。「五輪が始まって、110年近くもあの地に戻れなかったことだ」

 アテネは近代五輪発祥100周年にあたる96年の五輪開催地に立候補した。が、選ばれたのはアトランタ。五輪のメーンスポンサーであるコカ・コーラのおひざもとだ。アトランタ五輪は商業化の象徴として「コカ・コーラ五輪」と呼ばれた。

 サマランチ氏の評価は功罪相半ばしている。五輪が黒字化した半面、過剰な商業主義への批判は絶えなかった。サマランチ氏自身は少し負い目を感じていたのではないか。「借り」という言葉は、アテネへというより、五輪の原点である純粋精神への「借り」であったように思える。【滝口隆司】

毎日新聞 2010年4月21日 21時22分(最終更新 4月21日 21時28分)


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