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スポーツ総合スレッド

78小説吉田学校読者:2006/06/24(土) 11:59:58
ヒロシマ・ナガサキは、笑いの種にしたらだめだったか、やっぱり。戦犯探しに引っ掛けたかったわけですけれども、マスコミを見る限り、戦犯探しの気力すらなさそうな感じがします。

さて、北天祐といえば若嶋津であります。ちなみに私は若嶋津のファンでした。立会いでガンを飛ばしあう2人、長時間でも相当激しい取り組みをする2人。まさにライバル。好敵手かくあるべし。ということで、松ケ根親方のコメントが載っているサンスポで受け記事紹介。記事中の芝田山親方とは元横綱大乃国であります。

元大関北天佑が死去…早過ぎる45歳での別れ
http://www.sanspo.com/sports/top/sp200606/sp2006062401.html

 大相撲元大関北天佑の二十山親方(本名千葉勝彦)=写真右下=が23日正午、腎臓がんのため、東京都文京区の東大医学部付属病院で死去した。45歳だった。昭和51年春場所に三保ケ関部屋から初土俵を踏み、22歳で大関昇進。均整の取れた体と怪力で、貴ノ花(故二子山親方)に次ぐ史上2位タイの大関在位44場所を務めた。幕内白露山ら11人の弟子は、北の湖部屋に吸収合併される予定。
 あまりにも早すぎる元大関の急死だった。東京都墨田区の二十山部屋に駆けつけた師匠の三保ケ関親方(元大関増位山)は「年が一回りも離れているので、現役時代は付け人をしてくれた。順番が違う」と話すと、言葉を失った。
 10代で関取になり、「必ず横綱になれる」と期待された逸材だった。関脇の昭和58年夏場所で初優勝を果たし、22歳で大関に昇進。持ち前の怪力を武器にした豪快な投げが持ち味で、順調な出世を遂げた。横綱千代の富士(現九重親方)には14勝33敗と善戦、ライバルの大関若嶋津(現松ケ根親方)らとの熱戦は相撲ファンをうならせた。しかし、大関を44場所も務めながら、内臓疾患、腰痛などに苦しみ、期待された最高位にはあと一歩で届かなかった。
 平成2年秋場所後の引退以降は糖尿病と戦い、年明けからは健康のために酒、たばこを断っていた。審判委員を務めていた3月の春場所中に脳梗塞(こうそく)で倒れて入院。4月になると、看病する家族以外は病室に入れなかったほど重い病状となり、最後は100キロを切るほど衰弱していたという。
 現役時代はニヒルな表情を浮かべた色白の美男力士として、女性ファンから絶大な人気を誇った。華やかな相撲人生だったが、30歳での引退、そして定年まで約20年を残しての死と、人生を一気に駆け抜けていってしまった。
★芝田山親方「とにかく力強い力士だった」
 同じ道産子力士として2歳年上の二十山親方は、入門したときからあこがれの存在だった。将来を有望視された若手のホープ。本場所や巡業先での姿はまばゆいほど、輝いていた。
 とにかく力強い力士だった。初めて対戦したのは、昭和58年夏場所2日目。当時、二十山親方が大関目前の関脇で、私が初めての幕内上位。胸を借りるつもりで思い切り当たっていき、土俵際まで押し込んだ。ところが、マワシをつかまれると、簡単につられてしまった。まるでクレーンのようなもので真上につり上げられたように感じた。それほど力強く、バネがあった。その後も何度も対戦したが、初顔の一番は今でも鮮明に覚えている。
 3月の春場所で休場してから、関係者から「面会はできない」と聞かされていた。45歳で亡くなるなんて…。親方として、ロシア出身の白露山を幕内力士にまで育てたが、やり残したことがまだたくさんあったはず。ご冥福(めいふく)をお祈りします。
◆日本相撲協会・北の湖理事長(元横綱北の湖)
「45歳という若さで残念だ。腕力の強い力士だった。(現役時代は)同じ部屋で同じ釜の飯を食った仲間。それだけに病に勝てなかったのが残念だ」
◆松ケ根親方(元大関若嶋津)
「お互いが負けたくないと思ってけいこした。北天佑がいたから、おれもここまで来られた。ことし1月に家族同士で食事をした時は何ともなかったのに…。信じられない」


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