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スポーツ総合スレッド

578とはずがたり:2009/08/04(火) 01:36:50
巨星墜つ。最期は世界選手権開催中のローマでと云う事になったが最期迄一線で活躍されてたんですな〜。

古橋氏死去、「努力の大切さ学んだ」母校・雄踏小
08/03 14:57
http://www.shizushin.com/news/social/shizuoka/20090803000000000057.htm

 戦後、「フジヤマのトビウオ」と称され、競泳の世界記録を33回も塗り替えた古橋廣之進さんの死去の報から一夜明けた3日、浜松市西区の古橋廣之進記念市総合水泳場「ToBiO(トビオ)」には朝から大勢の市民らが訪れ、故郷の偉人の死を悼んだ。古橋さんの母校、市立雄踏小の児童も古橋さんの胸像の前に集まり、大先輩が残した功績に思いをはせた。
 古橋さんは3月に同校を訪れ、自身の幼少時代について講演した。「魚になるまで泳げ」と持論を展開し、子どもたちに夢を持ってひた向きに努力する大切さを訴えたという。同校5年の長浜瑠美さんは「頑張る大切さを教えてもらった。また、来てほしかった」と振り返り、同校水泳部の神田麻衣さん(5年)は「古橋さんのように速く泳げるよう頑張ります」と語った。
 一方、鈴木康友市長は同日、名誉市民の古橋さんの顕彰、追悼を行う計画について、名誉市民条例の中に相当の礼をもって慶弔を行うという規定があることから、「ご遺族のみなさんとも相談して、検討していく」と話した。

古橋広之進さん 水泳ニッポンを支え続けて(8月4日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090803-OYT1T01014.htm

 その功績は「フジヤマのトビウオ」の名とともに、記憶し続けられるに違いない。
 日本水泳連盟名誉会長の古橋広之進さんが死去した。80歳だった。
 国際水泳連盟副会長として、世界選手権が開かれたローマに滞在中の突然の病死である。スポーツ界の先導者の冥福を祈りたい。
 競泳選手だった古橋さんは、日本の復興期に、世界記録を33回も塗り替えた。
 語り継がれているのは、まだ敗戦の傷が癒えない1948年の日本選手権だ。
 日本はこの年のロンドン五輪への参加が認められなかったため、日本水連は、あえて五輪と同じ日程で日本選手権を開催した。古橋さんは400メートル、1500メートル自由形で、五輪の優勝タイムを大きく上回る記録を出したのだった。
 49年の全米選手権でも世界記録を連発し、現地の新聞は、「フジヤマのトビウオ」と称賛した。
 湯川秀樹博士が日本初のノーベル賞を受賞し、日本人に自信や希望を与えた年でもあった。古橋さんも、まさに同じような存在であったといえよう。
 52年のヘルシンキ五輪400メートル自由形では8位だった。この時、実況のアナウンサーが「古橋を責めないで下さい。古橋の活躍なくして、戦後日本の発展はありえなかった」と語ったのは有名だ。
 引退後の古橋さんは、日本水連会長などとして、低迷が続いた日本水泳界の立て直しに尽力した。選手にも気軽に声をかけた。その存在自体が、選手にとっては大きな励みであったはずだ。
 「水泳ニッポン」は現在、力を盛り返しつつある。
 日本オリンピック委員会会長としても、スポーツ界全体の発展に寄与した。昨年、スポーツ選手出身者として初めて文化勲章を受章した時には、「スポーツの素晴らしさを伝えたいと頑張ってきた」と喜びを語っていた。
 競泳界は、高速水着が脚光を浴び、記録も飛躍的に伸びている。だが、選手の確かな技量と、これを支える日ごろの鍛錬があってこそ、水着の性能も生きる。
 「魚になるまで泳げ」という古橋さんの教えは、これからも生き続けるであろう。
 「伸び盛りの選手が登場し、ベテランを必死にさせる状況が理想だ」。古橋さんのこの言葉は、どの競技にも通じるものだろう。
 遺志を継ぎ、日本のスポーツ界のレベルが一層、向上していくことを期待したい。
(2009年8月4日00時43分 読売新聞)


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