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スポーツ総合スレッド

1948とはずがたり:2016/08/22(月) 18:22:13

ゆとり教育の背景にあったのは、お母さんの「子供がかわいそう」という当時の気分だと、わたしはおもっている。

知識の詰め込みばかりやらされていてかわいそうだ、という気分は、自分の子はほかの子とちがって特別である、という親らしい思い込みと連動して、「それぞれの子供たちの個性を大事にする」というかなりむずかしい教育方針に転換することになった。1980年代から見直しが始まり、平成年間に入り、本格的に「ゆとり教育」となった。

「ゆとり世代」は、揶揄されることが多い。

ただ実際に「ゆとり世代」と接してみて、私はけっこう心地いい世代だな、とおもっている。あまり尖っていない。豊かな国の、ゆとりある環境で育てば、人はやさしくなるものだ、とちょっと感心する。

彼ら彼女らの印象をひとこと言えば「お母さんの言うことをきちんと守る世代」に見える。礼儀正しいし、人にやさしい。一緒に遊んでいるぶんには、とても気持ちいい存在である。一緒に戦うときの仲間としては、どうなのかはわからない。

結果として「身体性」が伸ばされた

教育は、人数が多いと画一的にならざるを得ない。いちいち、個別対応しきれないからだ。敗戦後しばらくは、子供が多く大変だった。細かい教育が行き届かない。しかたがない。社会もそれでよしとしていた。

それが少し世の中が落ち着くと、より個人を大事にする教育に変わっていく。結果として「身体性」が伸ばされる。

個性教育は「個別の身体性」がうまく伸ばされていくときにのみ、うまくいく。

発想や創造力を育てるのが個性教育ではない。個性は頭の中には存在しない。個性はすべて身体にしか宿らない。残念ながら個性教育によって「発想の奇抜さ」や「新しい創造力」が伸びるわけではない。個性教育はアスリートの数を増やす可能性はあるが、芸術家を増やすものではないのだ。

新しいものの考え方や知識というものは、すでに人類の叡智として蓄積されている知恵や情報を身体にどれだけ取り入れているかというのが前提になっていて、つまり「大量の知識をどれだけ記憶しているか」というのが問われてくる。知識を持たない者は新しい発想も持てない。そういうことになっている。ショートカットはない。

教育は、発想部分ではなく、基礎の知識部分だけでいいのではないか、というのがゆとり以前の〝詰め込み教育〟の発想であり、ゆとり教育が批判揶揄されるポイントでもある。どちらが正解だということはないだろう。社会が、そのつど、選んでいくしかない。

ただ、個性は身体性に拠る。身体は一代限りのものである。個性とは身体差を指すものだと考えたほうがいい。

個性を伸ばす教育が実際に押し進められると、「個体としての自分の特殊さ」をそれぞれが発見していくしかない。

当然、ぬきんでた身体的な才能のある子は早くから発見されやすく、それを伸ばす環境へ進みやすい。

このことと、オリンピックのメダルが増えたことが関係してる、と私はおもう。

ここ十数年のオリンピック水泳のメダリストが、すべて〝ゆとり世代〟というわけではないが、ただ日本社会が戦後初めて〝余裕〟を感じていた1980年以降の教育で育っている世代ではある。

敗戦後の教育に求められたもの

オリンピック競泳でメダリストをほぼ生んでない世代「1943年から1977年生まれ」というのは「敗戦後の教育」の世代である。


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