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スポーツ総合スレッド

1102チバQ:2011/07/07(木) 19:08:28
http://www.chosunonline.com/news/20110707000033
平昌冬季五輪:無名の平昌が世界の舞台に
12年間にわたる江原道「挑戦の歴史」
冬季五輪 平昌の挑戦はその第一歩から難関の連続だった。2010年の冬季五輪開催地立候補を決めたのはアジア通貨危機の影響で国が揺らいでいた1999年だった。当時は国全体が危機的な状況で、「五輪」という言葉を口にするのもはばかられた。しかも、平昌の最初のライバルは、外国の都市ではなく全羅北道茂朱だった。結局、国内外の冬季スポーツ専門家の意見に基づき、政府・大韓体育会(KOC)の仲裁により2002年2月、茂朱が譲歩することになった。


 03年7月、チェコ・プラハ。10年冬季五輪開催地が決定されるこの地で、オーストリアのザルツブルグ、カナダのバンクーバーと対決した平昌は孤立無援だった。国際オリンピック委員会(IOC)委員らに一生懸命「平昌」をアピールしたが、その多くは「北朝鮮の平壌」と誤解していた。


 だが、現地調査時に平昌の全住民がこぞって歓迎した姿をIOC委員たちは覚えていた。彼らは、平昌での思い出を同じIOC委員らに伝え、平昌の知名度は日に日に上がっていった。投票では3票差で惜敗したが、驚いたことにIOC委員らは「2010年の真の勝者は平昌」という手紙を送ってきた。


 2回目の挑戦の結果が発表された07年7月、グアテマラのグアテマラシティー。当時、平昌は「招致はほぼ決定的」と考えていた。IOC委員たちを個別に攻略、確認したところ、70%は平昌に票を入れるものと見込まれていた。ところが、想定外の攻撃をロシアが仕掛けてきた。航空機1機をチャーターしグアテマラ入りした平昌とは異なり、ロシアは軍用機9機を動員。プーチン大統領(当時)だけでなく、エネルギー関連企業の最高経営責任者(CEO)や歴代メダリストが総動員された。


 投票日の前日、東欧のIOC委員たちが韓国代表団のところに慌ててやって来た。「支持するのは困難になった。理由は聞かないでほしい」。権赫昇(クォン・ヒョクスン)元平昌郡守は「東欧諸国にガスなどを供給しているロシアが、エネルギーを盾に圧力をかけたため、平昌を支持していた東欧諸国の委員たちは突然翻意した」と考えている。


 キム・ジンソン前江原道知事は、江原道に戻るやいなや、すぐに3回目の挑戦をするためのムード作りに入った。帰国から3日で平昌各地に3回目の挑戦を促すイベントが開催された。その2カ月後の07年9月、平昌は18年冬季五輪開催地への挑戦を正式に宣言した。


 3回も挑戦できた背景には、江原道民の懸命な支援があった。07年の14年五輪招致の際は、冬なのに平昌ではほとんど雪が降らなかった。雪はIOC調査団が仁川国際空港からバスに乗り、平昌へ向かう途中に降り始めた。嶺東高速道路休憩所の女性職員たちは「雪が降っている」と跳ね回りながら涙を流した。滑降競技の会場が建つ旌善郡では、住民の半数がIOC調査団を出迎えた。今年2月に江陵で開催された2018人の「I have a dream(わたしには夢がある)」大合唱は、IOC調査団の脳裏に「夢に向かって突き進む平昌の情熱」を刻みつけた。


春川=李革宰(イ・ヒョクチェ)記者

洪瑞杓(ホン・ソピョ)記者


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