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国際政治・世界事情

5571チバQ:2013/01/07(月) 23:30:12
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2013010102000092.html
国境 交錯の現場 (1)カシミール地方 家族引き裂く印パ対立
2013年1月1日 朝刊

「カシミールは一つ」と力を込めるムハンマド・スブハーンさん=パキスタン北東部アザド・カシミール特別州ムザファラバードで


 「果物がたくさん取れるいい季節を選んで訪ねたんだ」

 故郷に帰るのは六十二年ぶりだった。パキスタン北東部アザド・カシミール特別州の州都ムザファラバードから東へ、折り重なるように並ぶ二、三千メートル級の山々を縫って緑の中をバスは走った。州都から約五十キロのチャコティ村。バスから降り係官に許可証を見せ、谷にかかる橋を渡るとインド北部ジャム・カシミール州に入る。

 そこはムザファラバードで雑貨店を営むムハンマド・スブハーンさん(94)が生まれ育った土地。ひざまずき大地に口づけして「向こう(パキスタン)へ行ったことをお許しください」と祈りをささげたという。二〇一〇年七月のことだった。

 橋の下が、一九四九年以来、カシミール地方を二つの国に分断する停戦ラインだ。

 四七年にイスラム教徒中心のパキスタンがインドから分離独立すると、中間のカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が勃発。イスラム教徒のムハンマドさんは、攻め込んできたインド軍との戦いに加わり、命からがらパキスタン側へ逃げ込んだ。

 インド側に残してきた両親と妻の安否が分かったのは六〇年。父宛ての手紙が偶然届いて連絡が取れるようになったが、知らされたのは妻の病死だった。数年後に他界した両親の死に目にも会えずじまい。停戦ラインを「家族を引き裂く血塗られた境界線」とムハンマドさんは呼ぶ。

 印パ関係が改善され始めた二〇〇五年、分断家族の相互訪問のためバスが週一回運行を開始。約二万二千人が利用してきたが、申請から乗車まで半年以上かかる。

 インドは一二年十一月、〇八年のムンバイ同時テロの実行犯とされるパキスタン人の死刑を執行。パキスタンのイスラム武装勢力が報復を示唆するなど、核を持つ両国は緊張関係が続く。

 多民族・多宗教国家のインドは、カシミールの分離が他の民族の独立運動を刺激する事態を恐れている。一方、イスラム教徒の統合を目指すパキスタンは、イスラム教徒の多いカシミールを手放すわけにはいかない。

 「カシミールは一つ。分断する停戦ラインをなくし、独立したい」とムハンマドさん。アザド・カシミール州政府の閣僚アブドゥル・マージッド・カーン氏も「国連決議に従ってインドが住民投票で帰属を決めない限り問題は解消しない」と主張する。だが、インド政府は「カシミールは固有の領土」との立場を崩さない。

 アザド・カシミールでは今、独立への関心が薄い若者が増えている。生まれてからずっと停戦ラインが存在するためだ。「停戦ラインは国境。インド側へも行ったけど自分の国(パキスタン)がいいと思った」とナザム・シェークさん(22)。

 教育現場では、民族の言葉のカシミール語でなくパキスタンの国語ウルドゥー語で授業が進められる。独立運動に詳しい著述家ムハンマド・ファルク・ラハマーニ氏(71)は「カシミール問題そのものを知らない子供が多くなった」と指摘。「カシミール人」としてのアイデンティティー(自己認識)が失われつつある現状に危機感を抱く。

  (ムザファラバードで、寺岡秀樹、写真も)

 <カシミール紛争> 英植民地時代のインドでヒンズー教徒とイスラム教徒との対立が深まり、1947年にヒンズー教徒が多数派のインドと、イスラム教国のパキスタンとが分離して独立。英領インドに500余あった藩王国の一つカシミール藩王国は、イスラム教徒が多数派だったが、ヒンズー教徒の藩王がインドへの帰属を決意したことをきっかけに、第1次印パ戦争が勃発。49年に停戦ラインが引かれ、国連決議は帰属を住民投票で決めるべきだとした。両国は、65年、71年にも交戦した。

   ×  ×

 日本を取り巻く東アジアは、領土問題をめぐる緊張が高まってきた。ヒトとモノが交錯し、狭あいなナショナリズムでは人々の暮らしが立ちゆかないような世界各地の国境の現場を訪ね、対立を平和裏に解消する知恵を探った。


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