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国際政治・世界事情

5564チバQ:2013/01/07(月) 23:21:53
領土と主権:第1部・独仏和解の現場から/1 フランス中部の村、ナチの虐殺に同胞協力
毎日新聞 2013年01月01日 東京朝刊

 ◇傷越え未来へ歩む 生存者「今のドイツ人に責任ない」
 尖閣諸島、竹島、北方領土−−。近隣諸国との領土を巡る摩擦が日本を揺さぶっている。領土と主権をめぐる国家間の対立をどう克服すべきか。世界各地の例を探るシリーズを、歴史的な和解を達成し、昨年ノーベル平和賞を受賞した欧州連合(EU)の礎となったドイツとフランスを舞台に始めたい。今月22日、独仏友好条約(エリゼ条約)締結から50年を迎えるのを前に、なお残る対立の遺産を克服しようと模索する住民らの思いを報告する。【オラドゥール(仏中部)宮川裕章、グランゼー(独東部)篠田航一】

 廃虚となった村に小雨が降り続ける。ロベール・エブラスさん(87)は、かつて自宅があった、がれきの山の前に立つ。母が子供たちの服を縫ったミシンが69年後の今も、焼け焦げた姿で横たわる。

 フランス中部オラドゥール村。ドイツ占領下の1944年6月10日、ハインツ・バート中尉らナチス親衛隊120人が突然現れ、男性住民を食糧倉庫に、女性と子供を教会に閉じ込めた。機関銃の一斉射撃と放火で、全人口に近い642人の命を奪った。19歳だったエブラスさんは、撃たれた住民の死体の下に隠れ、猛火とドイツ兵の目をかいくぐって脱出した。生存者は6人。エブラスさんは母と姉妹を失った。

 独側資料によると、村民が武器を隠しているなどの誤った情報が襲撃の理由だったとされる。廃虚は戦後、仏政府が史料として、そのまま残すことを決めた。村は隣接地に再建され、現在の人口約2200人のうち、虐殺事件前からの住民の家族は約50人とされる。

 戦争の傷は今なお仏社会に暗い影を落とす。襲撃したナチス部隊の中に、当時ドイツ領だった仏東部アルザス地方出身のフランス人がいたからだ。大半はナチスによる強制徴用で、「自らの意思に反して」のフランス語から「マルグレ・ヌ」と呼ばれる。53年の軍事法廷で13人が有罪判決を受けたが、恩赦で釈放されたことから両地域間に禍根を残した。99年、和解の象徴としてアルザス地方ストラスブール市からオラドゥールに贈られた彫像が破壊された。08年には、エブラスさんが出版した手記の中に13人が強制徴用であることを疑うような表現があるとして、アルザス住民らが訴訟を起こした。それでも両地域間では首長の相互訪問など交流が続く。

 99年に村に開館した虐殺記念館には毎年15万人以上が訪れる。そのうちドイツ人は500〜1000人。リシャール・ジェジエルスキ館長(57)は「事件を知るドイツの若者は少ない。事件の風化が心配だ」と語る。記念館は約5年前、ドイツの中高生を招く事業を始めた。

    ◇

 虐殺を指揮したハインツ・バートは戦後、旧東独の町グランゼーに身を隠し、07年に86歳で死去した。「81年に戦犯として逮捕されるまで、町の人は誰も過去を知らなかった。国営雑貨店で働き、愛想が良く、誰からも慕われていた」。生前を知るハインツディーター・シュミトケ牧師(56)が証言する。

 裁判でバートは「あれは戦争だった。仕方ない」と述べ、後悔の念を示さなかった。終身刑判決後、97年に体調不良を理由に釈放され、町に戻る。晩年は人付き合いを絶ち、息子2人も町を離れた。がんが進行し、死期を悟ったバートはある日、牧師を呼んで尋ねた。「私のような者も埋葬してもらえますか」。牧師がうなずくと、「匿名の埋葬にしてほしい。極右ネオナチらが墓を聖地化しないように。愚か者は我々だけで十分です」。そう言った。目に涙が見えた。

 葬儀の日、牧師は埋葬の言葉の中でバートの過去に触れた。逃げてはいけないと思ったからだ。「裁判中の言葉は知らない。だが死の直前、彼は確かに過去を悔いていた」。牧師はそう確信する。

 虐殺の生存者は、エブラスさんを含め2人になった。エブラスさんは記念館の依頼などで廃虚を歩き、訪問客に当時の体験を説明する。「今の若いドイツ人に責任はない。ただ悲劇が忘れ去られないよう、私は死ぬまで語り続ける」。領土を巡る争いが生んだ悲劇は今なおその傷痕を残す。だが戦後、人々は過去と向き合い、未来へと歩み続けている。=つづく


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