したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

国際政治・世界事情

3681チバQ:2012/01/03(火) 19:20:40
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111229-00000513-san-int
祖国に帰る理由 無限の可能性秘める南スーダン
産経新聞 2011年12月29日(木)13時57分配信


拡大写真
京都市伏見区で河川港を見学する南スーダンの運輸省河川交通局、リート部長(左)と中央エクアトリア州住宅・建設局のワニ局長(右)(写真:産経新聞)

 【大阪から世界を読む】来年から自衛隊の国際平和維持活動(PKO)に南スーダンが加わる。アフリカ大陸の内陸にあるこの国は今年7月、スーダンと半世紀にわたる葛藤を経て独立を達成した。アフリカでは18年ぶりの独立国だ。ただ、日本の1・7倍の国土に舗装道路は100キロに届かず、都市らしい都市もない。そんな国にいま、国外に逃れていた人たちが続々と帰ってきている。なぜ「何もない国」帰るのか。(坂本英彰)

 ■「国のために働ける」

 南スーダン運輸省河川交通局部長のジェームス・リートさん(54)は10年にわたる米国生活を切り上げ、帰国した。11月末に国際協力機構(JICA)の招きで来日し、約2週間の研修で横浜や和歌山、京都などの港湾施設を視察した。

 「南スーダンは自分の国ですからね。とても自由を感じるし、国のために働けることがうれしく誇りに思います」

 灼熱(しゃくねつ)のアフリカと対照的な凍えるような京都。日本で買ったというジャケットを身に付け、恰幅(かっぷく)のいい体を揺らして力強く言った。物質的な豊かさでは故郷と比較にならない米国にいたときも、平和が戻れば帰りたいと思っていたという。

 トラックが走れるような道路がほとんどない南スーダンで、南北に貫くナイル川は国内輸送の基幹。南部にある首都ジュバなどの河川港を整備・運営するのがリートさんの任務だ。

 いまは港といえるほどの港はない。マンゴーの木にはしけをつないで荷降ろしするといった状況という。

 しかしジュバには次から次へと、帰還者を乗せたはしけが到着している。ドイツの国際放送局ドイチェ・ヴェレ電子版は「はしけが近づくと歓声や叫び声がわき起こり、船客もデッキに立ちあがったり屋根に登ったりして歌い始めた」と、再会の様子を描写している。

 ■抑圧の歴史

 多くの旧植民地国家と同じく人工的に引かれた国境を持つスーダンは、生い立ちから軋轢(あつれき)を抱え込んでいた。英国とエジプトの共同統治から独立したのは、リートさんが生まれる前年の1956年。しかし政府は北部のアラブ系イスラム教徒が実権を握り、黒人系キリスト教徒が多い南部は抑圧されてきた。

 政府職員として働き始めた83年、反政府勢力のスーダン人民解放軍(SPLA)が政府軍との内戦に突入した。89年にバシル准将がクーデターを起こして全権を掌握してイスラム化を強くすすめ、93年には大統領に就任して独裁的な権力を振るいはじめた。南部出身のキリスト教徒として働くリートさんの立場は年々、厳しくなっていった。

 ナイル川の中核河川港で勤務していた95年、ついに脱出を決意する。SPLAとの関係を疑われ、命の危険にさらされる状況になってきたためだ。仕事も住む場所も捨てて6カ月にわたって各地をさまよい、エチオピアの難民キャンプに逃げ込んだ。

 リートさんのような境遇が特殊だったわけではない。英BBCによると、83年から2005年まで続いた内戦で400万人が難民化し150万の人命が失われた。いまの南スーダンの人口約820万人と比べると、その規模が推し量れる。

 4年間にわたるキャンプ生活のあと難民として米国に渡ることができたリートさんは、むしろ幸運だった。コロラド州デンバーに住んでエンジニアの学士と神学修士も取得。南スーダン系の人々が集まれるカトリック教会を自ら設立し、司祭を務めた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板