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国際政治・世界事情

3566チバQ:2011/12/12(月) 18:33:02
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111210/erp11121015180008-n1.htm
【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】
第6部 帝国再興の野望(3)武力でねじ伏せた親欧米路線
2011.12.10 15:17 (1/3ページ)[米国]

2008年8月のグルジア紛争で、同国中部を走行するロシア軍車両(遠藤良介撮影)
 旧ソ連・グルジア(人口約422万人)の首都、トビリシから車で30分ほど走ると、街道沿いに同じ形をした小さな平屋の住宅約2千戸が忽然(こつぜん)と現れた。

 2008年8月にこの小国がロシアと交戦した「グルジア紛争」で、ロシアが事実上併合したグルジア・南オセチア自治州から追われたグルジア人難民ら約6700人が暮らしている。

 難民村のコルチシュビリ村長(44)は「(南オセチアの州都)ツヒンバリ近郊にいた人々にはもう自宅が(破壊されて)存在しない。家が残っている地域の人々もロシア語の身分証明書類を携えてロシア側の検問を通らねばならず、安全上の理由からも定住はできないのです」と語った。

 グルジアには、少数民族であるオセット人とアブハズ人の暮らす南オセチア自治州とアブハジア自治共和国がある。1990年代前半の民族紛争で両地域からは20万人以上のグルジア人難民が発生し、その大半が政府の統制が及ばない独立派地域となった。

 ロシアが旧ソ連構成国に初めて侵攻した2008年の紛争では、アブハジア、南オセチアのうちグルジアが保持していた地域までもが奪取され、先の「村」などで今も約2万7千人が難民生活を送っているのだ。


紛争誘発の「罠」


 「日本は北方四島から北海道を砲撃されて、どれくらい我慢ができますか」

 グルジアのサーカシビリ政権で経済相などを務めたベンドゥキッゼ氏(55)はグルジア紛争を北方領土問題に重ね、「それだけロシアの挑発が強まっていたのです」と訴える。

 紛争は一般に08年8月8日未明、グルジアが南オセチアの再統一を狙って同自治州に攻撃をかけ、露側が「自国民保護」を掲げて報復に出たものだと解釈されている。グルジア側はしかし、紛争がこの日に始まったとは考えていない。識者らは次のように説明する。

 〈ロシアは1990年代の内戦でアブハジアと南オセチアの独立派を支援し、停戦後は平和維持部隊の名目で軍を駐屯させた。両地域の住民に自国のパスポート(市民権)や年金を与え、南オセチアには露将校らによる傀儡(かいらい)政権を樹立。南オセチアからグルジア側への攻撃が次第に激しさを増していく中、2008年8月8日を迎えた。プーチン露首相(前大統領)はグルジアの反撃を誘うための「罠(わな)」を仕掛けたのだ〉

 グルジアでは03年の政変「バラ革命」で大統領の座に就いたサーカシビリ氏が欧米流の市場経済へと急速にかじを切り、対外政策でも欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)への加盟を目指す親欧米路線を鮮明にした。

 グルジアはカスピ海沿岸や中央アジアから欧州方面に石油・天然ガスを輸送する回廊にもあたり、「脱露」が独立国として発展する道筋と考えたからだ。


「周り敵だらけ」


 サーカシビリ大統領に近い戦略・国際研究財団のロンデリ所長(69)は、ロシアが紛争を誘発した理由について「地政学的要衝としてのグルジアを統制し、旧ソ連圏は自国の『裏庭』『特権的利益を有する地域』であることを示すためだった」と指摘。「ロシアは『周りは敵だらけだ』という偏執病を抱えていて、モスクワを向かない者を許せないのだ」と語る。

 ロシアは紛争後、停戦合意を破りアブハジアと南オセチアの独立を一方的に承認し、それぞれ数千人規模の部隊を居座らせている。

 そして、紛争前のグルジアと同様、ロシアが独立派地域に「平和維持部隊」を置いてにらみをきかせている旧ソ連構成国は、他にもある。(遠藤良介)


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