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国際政治・世界事情
3219
:
チバQ
:2011/10/20(木) 23:42:02
http://www.cnn.co.jp/world/30004336.html
カダフィ大佐死亡か、国民評議会が発表
2011.10.20 Thu posted at: 21:53 JST
(CNN) リビアの国民評議会(NTC)は20日、最高指導者だったカダフィ大佐が死亡したと、中東の衛星テレビ、アルジャジーラを通じて伝えた。トリポリは祝賀ムードに包まれている。
しかし、カダフィ大佐は拘束されたとの情報もある。また、AFP通信が携帯電話で撮影した血にまみれたカダフィ大佐とみられる映像の一部を公開しているが、CNNはこれらの情報について正式な確認をとれていない。
約42年にわたって同国を支配してきたカダフィ大佐は政権崩壊後、行方が分からなくなっていた。
今月17日には、リビアの新政権づくりを目指す国民評議会が、カダフィ大佐の支持派が抵抗を続けていた最後の拠点の1つ、バニワリドを制圧したと発表し、バニワリドの制圧により、国民評議会の部隊はカダフィ大佐の出身地シルトに兵力を集中させるとしていた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111020/mds11102023130009-n1.htm
評伝 中東の狂犬、遅すぎた退場
2011.10.20 23:10 (1/2ページ)[中東・アフリカ]
1996年9月、政権奪取27周年の記念式典を開いたカダフィ大佐(AP)
約42年にわたって座り続けた“玉座”を追われ、所在不明になっていた産油国リビアのかつての最高指導者カダフィ大佐の死亡が伝えられた。多くの奇行と独特の革命理論、そしてかつてのテロ支援−。冗舌に自己弁護し、自国民に空爆を行ってまで権力にしがみつこうとした「中東の狂犬」は、国際社会の軍事介入まで招いた結果、無残な退場を余儀なくされた。
カダフィ氏は1942年、地中海沿岸のシルトに生まれた。69年に軍事クーデターを主導し当時のイドリス国王を打倒、革命指導評議会議長に就任した。27歳の若さだった。
77年には、国名を「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリヤ国」に変更し、資本主義とも社会主義とも違う「第3の道」を標榜(ひょうぼう)したが、実際には典型的な独裁体制だった。重要事項はすべて自身が決定し、周囲は一族や出身部族の人間で固めた。
残忍さも際立った。反体制派の家族や友人にも拷問を行うよう指示。70年代にはパレスチナゲリラや日本赤軍によるテロを支援、リビアが関与した88年12月の米パンナム機爆破事件では270人が死亡している。
今年2月以降、反体制派との戦闘が激化すると、自国民を容赦なく空爆、死者は数千人に達したといわれる。にもかかわらず、米欧などの攻撃が始まると「悪魔の軍を倒す」「お前たちは犯罪者だ」と非難。その言葉はまるでブラックジョークのようだった。
一方で、人を食ったような言動がメディアをにぎわしもした。外遊時には遊牧民のテントを持参してそこで寝泊まりし、女性だけで構成された部隊をボディーガードとして同行させた。
2009年のアラブ首脳会議では、自らを「アラブ指導者の指導者、アフリカの王の中の王にしてイスラム教徒の導師」だと宣言。サウジアラビアのファハド前国王との会談で、前国王の顔に葉巻の煙を吹き付けた−とのエピソードも残る。奔放な発言と予測が難しい行動。各国首脳にとっては、カダフィ氏こそが煙たい存在だったはずだ。
軍人出身であることを誇りとし、「大佐」の呼称にこだわったが、全権を掌握していたはずの軍はデモ発生後、次々と反体制派に寝返っていった。
建前上、代議員が存在せず、直接、国民の声を政治に反映させるとする「直接民主制」の国家を建設したというカダフィ氏。40年以上の治世で、王政時代から顕著だったとされる東西対立を押さえ込み、国民を「リビア人」として統合してきた側面は否めない。
だが、長すぎる支配に対する国民の「ノー」という叫びには耳を傾けず、政権崩壊後も多くの犠牲者と国土の荒廃、さらには原油高を通じ世界経済への悪影響をもたらした。その退場は必然であり、遅すぎた。(カイロ 大内清)
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