したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

国際政治・世界事情

2860チバQ:2011/07/28(木) 23:04:18
 ギリシャ人仲間の一人で、サマラス氏のルームメイトでもあったスティーブン・マヌエリディス氏によると、サマラス氏は保守的な考えを持ち、頑なな反共主義者だったが、社交的な学生で、よく女子大の学生とのパーティーを企画していたという。

 一方、父親譲りの左派主義者だったパパンドレウ氏は、もの静かな学生で、ギターを弾きながらプロテストソングを歌っていたと当時の友人らは話している。同氏が気に入っていた一曲に、英国のロック歌手アルビン・リーがその時代の夢と混乱を歌った「チェンジ・ザ・ワールド」(世界を変えたいが、何をしていいか分からない・・・という歌詞)がある。親しい知人によると、ギリシャの野党指導者時代のパパンドレウ氏は、米アップルの携帯電話アイフォーンの着信音にこの曲を設定していたという。

 サマラス氏もパパンドレウ氏も、学生時代からすでにギリシャでの政治活動を視野に入れていた。マヌエリディス氏は、あるとき二人が大学の寮で「我らは共にギリシャを支配する」と声高に叫んでいたのを覚えている。当時ギリシャが軍事政権下にあったことを考えれば、その宣言は「本気とも冗談ともつかない」ものだったと同氏は振り返る。

 ギリシャに民主主義が戻ると、二人は議会入りした。パパンドレウ氏は、精力的な父親のアンドレアス氏の陰に隠れていた。1996年に亡くなるまでギリシャ政界に君臨したアンドレアス氏は、ギリシャの福祉制度を大幅に拡充し、農村部の貧困者に初めて公的サービスをもたらした。

 ギリシャは、より平等になる一方、より借金漬けになった。アンドレアス氏が創設した政党、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が政権を握り、保守派の新民主主義党が最大のライバルとなった。両党とも、票を集めるために金のかかるバラマキ政策――公務員数の大幅増など――を行うことで政治基盤を築いた。これが財政の時限爆弾を形成していった。

画像を拡大する


ギリシャ経済の概況 左:失業率 中央:GDPの前期比成長率 右:青=財政赤字、赤=債務総額のGDP比率

 1990年代初頭、若き外相サマラス氏は、隣国に強硬姿勢を示すことで国家主義者としての名声を打ち立てた。独立したばかりのマケドニア旧ユーゴスラビア共和国が「マケドニア」を国名に採用しようとしたことに対し、この名称はギリシャと歴史的に深いかかわりのある名称だとして激しく抗議したのだ。これを受け、ギリシャではサマラス氏の主張を支持する大規模な抗議活動が起こった。

 「彼は対立を辞さないタイプだ。欧州はこのことを覚えている」。長年の知人で、アテネで新聞を発行するジョージ・キルトソス氏はこう話す。

 外相の職を解かれたサマラス氏は、造反を主導して自党の政権を転覆させ、以後10年間にわたり政界で居場所を失った。「11年間、自宅の壁を見つめて過ごした」と同氏は振り返る。

 パパンドレウ氏も外相を経験したが、近隣諸国とは異なる関係を築いた。1999年に就任すると、大敵トルコとの和解を模索。手始めとして、同年に発生したトルコ大地震で生き埋めになった人々を助け出すため救助隊を派遣した。理想主義的なスピーチでトルコ人の共感を誘い、同国外相と一緒に映画『その男ゾルバ』のようなダンスを踊ったこともある。

 とはいえ、パパンドレウ氏とサマラス氏は相変わらず親しい間柄だった。2004年、PASOK党首のパパンドレウ氏は自由市場主義者を自党に引き入れようと、仲介者を通じてサマラス氏に入党を持ちかけた。サマラス氏は社会主義者になることはできないと断った。

 パパンドレウ氏は2009年の選挙で近代化政策を訴え、政権の座に就く。それまで与党だった新民主主義党は汚職スキャンダルにまみれており、パパンドレウ氏はその失態を引き継がねばならなかった。また2009年の財政赤字額は、前政権が公表していた額よりはるかに多く国内総生産(GDP)比15.5%であることが判明した。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板