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国際政治・世界事情

2702チバQ:2011/06/21(火) 22:47:30
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110621/erp11062108070004-n1.htm
【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】
第3部 強権への序章(下)
2011.6.21 08:05 (1/3ページ)

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モスクワで昨年10月、反政権リベラル派の連合体の初集会に参加した市民ら。警官隊が厳重に取り囲む中、約1000人が政権打倒を叫んだ
 ■過ちも希望もあった時代

 ロシアのウラジーミル・ルイシコフ元下院議員(44)が故郷のシベリア・アルタイ地方で副知事になったのは1991年、弱冠25歳の時だった。地元でペレストロイカ(改革)を支持する民主化運動組織を主宰しており、当時のエリツィン大統領が任命した改革派知事によって抜擢(ばってき)されたという。

 ソ連崩壊を経た93年以降、ルイシコフ氏は下院選に連続4回当選し、若手リベラル派の旗手として活躍。だが、2003年の選挙を最後に出馬の機会を奪われる。00年にエリツィン氏の後を継いで大統領に就任したプーチン氏(現首相)が、下院選の小選挙区制度を廃止して比例代表に一本化、ルイシコフ氏の政党も登録を抹消されたためだ。

 ルイシコフ氏はエリツィン氏の「過ち」として、(1)第1次チェチェン戦争(2)民主主義の「制度づくり」を軽視したこと(3)プーチン氏を後継指名したこと−の3点を列挙。他方、「功績は市場経済を導入し、プーチンと違って民主的に政治を行ったことにほかならない」と話す。

 ◆リベラル派の反発

 ソ連崩壊後にエリツィン政権が断行した急進的経済改革が庶民生活を翻弄し、不評だったことは前回までに紹介した。そのあと登場したプーチン政権は「1990年代=混乱期」と喧伝(けんでん)し、「安定」と「大国再興」を盾に、強権支配や経済の国家統制を推し進めた。

 リベラル派は、そうしたプーチン流の90年代評価に真っ向から反発する。

 94〜97年に大統領補佐官を務めたサタロフ氏(63)は「(経済体制の)移行が過酷だったのは、長らく必要な改革が行われず、経済がもはや心肺停止状態になっていたためだ」とし、急進改革以外に道はなかったと強調する。

 「2000年まではビジネスが発展し、経済は十分に良い傾向を見せていた。(プーチン氏がいなければ)人々はより豊かになり、今ほど(役人に賄賂を)かすめ取られることもなかったに違いない」

 サタロフ氏が最も問題視するのは、プーチン政権下で官僚機構を監視すべき議会や報道機関、社会団体が骨抜きにされ、汚職が深刻さを増したことだ。

 エリツィン時代末期、商売絡みで支払われる賄賂の平均額で新築アパート30平方メートルが買えるとされたが、05年にはそれが200平方メートル相当にまでなったという指摘まである。

 ◆風前のともしび

 だが、プーチン批判が大きな政治的うねりになる兆候はなく、リベラル派は風前のともしびだ。このことは政権による反対派弾圧や選挙不正、言論統制だけで説明できるものでもない。

 モスクワの独立系世論調査機関、レバダ・センターのドゥビン社会・政治研究部長(64)は「国民の6割がエリツィン時代には『悪いことの方が多かった』とみている。(1990年代に)エリツィン氏の支持率が急落したのと並行し政治への関心も失われた」と話す。

 逆に、「ある程度の生活水準が確保されることと引き換えに、時の権力に全てを委ねる」というロシアの伝統的な政治観が頭をもたげており、ドゥビン氏は「石油価格の下落や戦争が起きない限り、多数派は今ある政権に投票するだろう」とみる。

 冒頭の政治家、ルイシコフ氏は昨年9月、ネムツォフ元第1副首相らと反政権リベラル派の連合体を結成し、今年12月の下院選、来年3月の大統領選に向けて政党登録を申請している。「90年代には多くの過ちがあったが、希望もまた多かった」と話すルイシコフ氏が、再び中央政界に返り咲く日は来るだろうか。(遠藤良介)


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