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国際政治・世界事情

2700チバQ:2011/06/21(火) 22:46:02

正当化された強権


 国民がエリツィン氏を熱く支持したのはしかし、ここまでだった。

 モスクワの独立系世論調査機関、レバダ・センターのドゥビン社会・政治研究部長(64)は「92年にはもうエリツィン人気が下がり始めていた」と話す。

 ドゥビン氏は支持率急落の理由として、(1)「ショック療法」と呼ばれた急進的経済改革(2)共産党優位だった議会との不断の対立(3)第1次チェチェン戦争−を挙げる。特に「価格の自由化」と国有企業の「民営化」を柱としたショック療法は、ハイパー・インフレや貧富の格差急拡大を招いて強い反発を買った。

 98年の金融危機と自身の健康悪化も重なり、エリツィン大統領は99年末、KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン氏(前大統領・現首相)を後継者に指名して退任。プーチン氏は「安定」を望む国民心理を逆手にとって強権統治を推し進め、それが多数派の支持も得ることになる。


あくまで政治主導


 エリツィン氏は「ロシアを大事にしてくれ」と言い残してクレムリンを去った。エリツィン政権初期のナンバー2だったブルブリス元国務長官(65)は「大事にすべきロシアについて、プーチン氏の考え方は違った」「出来上がったのはプーチンの個人権力体制であり、プーチンを後継者に指名したことは大きな過ちだった」と話す。

 政権が今になってエリツィン氏を“再評価”してみせるのは、90年代と2000年代の「断絶」を糊塗(こと)し、民主化を後退させた自らを正当化する思惑からだろう。ブルブリス氏は、一応の「安定」を得た政権が「停滞」を危惧し始めたことが改革者・エリツィンを見直す背景にあるとみる。

 ただ、“再評価”はあくまでも上からの政治主導である。

 エカテリンブルクから車で約9時間のベレズニキ。エリツィン氏の母校プーシキン第1学校の前庭には、詩人のプーシキンでもエリツィン氏でもなく、ロシア革命の祖レーニンの胸像がたつ。校史を紹介するミニ博物館の一室でエリツィン氏に関する展示は、数点の書籍と新聞記事だけだった。

                   ◇

 20年前の6月12日、ソ連の中核だったロシア共和国で大統領選が行われ、当時のエリツィン共和国最高会議議長が当選した。直接選挙による指導者選出はロシア史上初めてだった。第3部は、民主化と改革への高まる期待が急速にしぼんでしまった、エリツィン政権の90年代を振り返る。(遠藤良介)


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