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国際政治・世界事情

2699チバQ:2011/06/21(火) 22:45:38
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110619/erp11061914500002-n1.htm
【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】
第3部 強権への序章(上)
2011.6.19 14:46 (1/4ページ)

エカテリンブルク中心部にそびえるエリツィン像。国民レベルでは不人気のままだ(遠藤良介撮影)

エリツィン氏の“再評価”


 ロシアの初代大統領、故ボリス・エリツィン氏(1931〜2007年)が故郷ウラル地方・スベルドロフスク州の「名誉州民」になったのは、没後3年近くもたった昨年1月のことだった。州都エカテリンブルクに白い大理石のエリツィン像(高さ10メートル)が完成したのは、生誕80年にあたった今年2月である。

 政権末期の1990年代末には支持率が数%にまで落ち込み、不人気だったエリツィン氏にようやく“再評価”の光が当たり始めたようにも見える。

 2月のエリツィン像の除幕式にはメドベージェフ大統領が駆けつけ、「最も困難な時期に国の改革が行われ、今日の前進があることについて、ロシアはエリツィン氏に感謝すべきだ」と述べた。

 ソ連解体と民主化の立役者、エリツィン氏は中央政界入りするまでの76〜85年、州の共産党委員会第1書記として地元発展に辣腕(らつわん)を振るった。

 当時を知るエカテリンブルクの新聞記者、ベリャエフ氏(54)は「エリツィン氏は各地を精力的に飛び回り、住民や労働者と対話した。当時から、モスクワの党官僚とは全く違う言葉で話す政治家だった」と振り返る。

 「エリツィン氏のおかげで90年代には中小ビジネスが発展し、言論の自由もあった」。ベリャエフ氏はこう語る一方で、「しかし現在のエリツィン再評価は住民に発したものではない。エリツィン関連の記事に寄せられる反響の9割はエリツィン批判だ」と話す。


「安定」得た政権に危機感


 「エリツィン氏に万一のことがあった時に備え、エカテリンブルク郊外の地下核シェルターに『臨時政府』を設ける準備も進められていたのです」

 ロシア・エカテリンブルクにある民間学術機関、エリツィン・センターのキリロフ所長(63)は、ソ連末期の1991年8月にこんな計画があったことを明かす。

 共産党守旧派が当時のゴルバチョフ・ソ連大統領を軟禁し、クーデターを試みた時のことだ。エカテリンブルクに州都を構えるスベルドロフスク州は、ロシア共和国大統領だったエリツィン氏の故郷である。

 クーデターが4日目に失敗に終わるまで、エカテリンブルクでは、クーデター粉砕を呼びかけていたエリツィン大統領を支持するために連日、数万人がデモを続けた。「臨時政府」は、クーデター2日目にエリツィン氏が特使を通じて準備を指示したものだという。

 85年に党中央に進出したエリツィン氏は、ペレストロイカ(改革)を打ち出すゴルバチョフ政権下で反主流の急進改革派として台頭。ゴルバチョフ氏が守旧派と改革派の板挟みになる中、ロシア共和国に大統領制を導入したエリツィン氏は大衆の支持を最大の武器に存在感を増していく。

 そして91年8月のクーデターでゴルバチョフ氏の権威失墜とエリツィン氏の優位が決定的となり、歴史の歯車は12月のソ連解体へと急回転していった。


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