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国際政治・世界事情

2287チバQ:2011/03/05(土) 13:52:09
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110221/erp11022108140001-n1.htm
(1)セルビア(上)EU加盟へ、戦犯を逮捕せよ
2011.2.21 08:10 (1/3ページ)

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ラドバン・カラジッチ被告(左)とともに記者会見に臨むミロスラブ・トホリ氏(1995年当時、トホリ氏提供)
 文学者を思わせる穏やかな風貌の男性は静かな口調で語り始めた。

 「1980年にチトー大統領が死去してから旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではそれぞれの勢力が権力争いを始めるなど、紛争の兆候は見られた。イスラム教とカトリック、セルビア正教の3勢力が血みどろの争いを繰り広げてきたバルカン半島では、些細(ささい)なことで民族の憎悪が燃え上がる」

 1992〜95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、同国内のセルビア人勢力が樹立を宣言したセルビア人共和国の情報相だったミロスラブ・トホリ氏。セルビア人が圧倒的多数を占める隣国セルビアの首都ベオグラード郊外のレストランで当時を振り返るトホリ氏の表情は次第に熱を帯びていった。

 トホリ氏は2008年にセルビア政府に拘束されたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の戦犯、ラドバン・カラジッチ被告の右腕を務めた。カラジッチ被告は1995年、東部スレブレニツァでイスラム教徒8千人が犠牲になったとされる虐殺事件などを指揮したとして、旧ユーゴスラビア国際戦犯法定(ICTY)で公判中だ。

 カラジッチ被告が96年に姿を消してからも、トホリ氏は極秘の連絡ルートを通じて送られてくる同被告の小説や詩を出版し続けた。約12年に及ぶ潜伏生活に入る前日、同被告はトホリ氏を含む側近数人と民家で最後の夜を過ごした。同被告はグラスに1センチほど注いだ酒をなめるように飲み、たばこを1本くゆらした。

 このとき同被告への連絡手段が指示された。トホリ氏が決められた場所にメモを置けば必ず同被告に伝わり、しばらくして返答が送られてくる。こうした伝言のチェーンが幾重にも設けられ、全体のつながりを知るのは同被告だけだった。

 トホリ氏は「最後にラドバンは親類の家に自分の声で電話をかけた。セルビア人共和国の無事を見届けたラドバンは、家族や支援者が生活に窮しているのを見かねて自ら拘束されたのだ」と語る。

 精神科医で詩人だったカラジッチ被告と同人誌の集まりで知り合ったトホリ氏は「ラドバンは、欧米が描くようなセルビア民族主義者ではなかった」と繰り返した。

                 □   □

 90年代の旧ユーゴ解体の過程で、各共和国の政治指導者が権力奪取のために民族の不安心理をあおった結果、民族の憎悪が燃え上がった。イスラム教徒、セルビア人、クロアチア人の対立が激化したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では20万人以上が死亡、難民・避難民は250万人を超えた。

 白い墓標が立ち並ぶスレブレニツァ虐殺記念墓地。

 「虐殺を生きのびた一人」という墓地の管理人の男性は「近所や同級生の誰が自分の家族や親類を殺したか知っている。それでもあいさつだけはする。ここに住み続けなければならないし、人生を途中でやめるわけにはいかないから」と声を落とした。

 旧ユーゴは6つの国に分裂し、2008年にはセルビアの自治州だったコソボが独立を宣言した。旧ユーゴからはスロベニアが04年に欧州連合(EU)に加盟。11年にクロアチア、12年にはマケドニアが加盟するとみられている。

 旧ユーゴ紛争で欧米から“悪玉”の烙印(らくいん)を押され、EU加盟の動きから取り残されたセルビアのタディッチ大統領は周辺国との和解を進め、09年12月、EU加盟を正式に申請した。


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