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国際政治・世界事情

1766チバQ:2010/12/07(火) 00:31:54
さらに、バグボ大統領は、2010年が独立50周年の記念すべき年になることに、言い及ぶ。そして、1960年の独立に至る経緯を述べた後、こういう風に言う。
「その当時、作り上げたばかりの国の体制を守らなければなりませんでした。そして、平和を維持し、独立を確保していかなければなりませんでした。そのために、コートジボワールの指導者たちは、一党支配という選択肢を選んだのです。今こそ、この選択肢には、もう別れを告げなければなりません。その当時、わが国は、植民地から独立国への移行を果たしました。そして今は、一党支配の政治文化から、民主主義の政治文化への移行を果たしつつあるのです。」

「一党支配の政治文化からの脱却」というのは、バグボ大統領にとっての、生涯をかけた政治課題に違いない。彼は、大学の教職員としての組合活動からはじめて、1980年代はじめに人民党(FPI)を結成した。ウフエボワニ大統領の時代、あらゆる野党の政治活動が禁じられていた。だから、人民党はもちろん非合法で、ウフエボワニ大統領からは弾圧を受け、バグボ党首も何度か投獄されている。ウフエボワニ大統領の一党支配への挑戦こそが、まさに彼の政治の原点であった。

やがて、ウフエボワニ大統領は、複数政党制度の容認を余儀なくされる。フランスが、非民主的な政権への援助を再考する考えを示し始めたからだ。1990年6月、当時のミッテラン大統領は、仏・アフリカ首脳会議の席上で、次のように宣言した。
「フランスは、これからはその対外支援を、民主主義の達成度合いに応じて、決めていくことになるだろう。」

ウフエボワニ大統領は、フランスの要請を受け入れ、複数政党制度に移行した。そして、1990年の大統領選挙を、対立候補を許す形で初めて行った。バグボ党首は人民党から立候補し、このときは落選している。複数政党制度は導入されたけれども、それによる民主主義が根付く前に、コートジボワールは混乱に巻き込まれていった、というのがバグボ大統領の見方なのだろう。

ウフエボワニ大統領の逝去とともに、ベディエ国会議長(当時)が大統領を継承(1993年)、そしてゲイ将軍のクーデタ(1999年)と、いまひとつ本当に国民の選択といえるか分らないような、政権の推移があった。2000年の大統領選挙でさえ、あまり感心できない低調な選挙であったことを、選出されたバグボ大統領自身が認めている。だから、今度の大統領選挙こそ、複数政党制による民主主義がきちんと定着し、機能しているということを確認する選挙なのだ、とバグボ大統領は位置付けるのだろう。

そして、この「一党支配の政治文化」というのは、民主選挙の問題にとどまらないように思う。ウフエボワニ大統領時代、33年間にわたって、コートジボワール国民にとっての政治とは、一党支配による富の分配にどう与るかということであった。自分で独立独歩、道を切り拓くということには思いが至らず、ただ親分に付き従って分け前をいただく。今に至っても、コートジボワールの人々には、考え方や行動にそういう傾向がみられる。

バグボ大統領が、そうした国民の頭を切り替えさせようとしているとしたら、それは大変な挑戦である。意味はちょっと異なるが、日本でもちょうど今、「一党支配の政治文化」からの頭の切り替えに、苦しんでいる。多くの人々にとって、長年慣れてきたやり方を変えるのは、苦痛を伴うものである。

「2ヶ月のうちに大統領選挙が行われるということを、皆が知っています。だから、じっくり落ち着いて、選挙の準備を見守ろうではないか。」
選挙について、バグボ大統領はそう締めくくった。

バグボ大統領が、年の分かれ目にあたって、自分の生涯をかけた政治課題を提示したところに、私は新年に向けての彼の決意を読み取る。大統領選挙をきちんと実施して、コートジボワールの歴史的な課題に決着をつけたい。そう大統領が考えているのだとすれば、いよいよ今年はものごとが動く。私も、しっかりと心の準備をしなければならない。


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