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国際政治・世界事情

1050チバQ:2009/12/10(木) 22:37:34
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009120502000067.html
解放と再建 冷戦終結20年 東欧編(上)チェコ  政治的慎重 統合でも
2009年12月5日 朝刊

20年前、数十万人規模の民主化要求デモに民衆が熱狂したプラハのバツラフ広場。「プラハの春」の翌年には、騎馬像(中)の前で学生が抗議の焼身自殺をする事件もあった


 無血で共産党政権を崩壊させた「ビロード革命」から二十年を迎えたチェコ。欧州連合(EU)への加盟で経済的には豊かになり、プラハは、オバマ米大統領の「核なき世界」演説の舞台ともなり、世界中から観光客が訪れ、自由な雰囲気があふれる。しかし政治的な動揺は続いている。

 顕著に現れたのが、十一月のEU新条約批准問題。主役はクラウス大統領(68)。一九六八年の民主化運動「プラハの春」に武力介入した旧ソ連を批判して体制の中枢から追われ、ビロード革命で結成された「市民フォーラム」に参加し政界に登場。新条約批准では自国の主権侵害を理由に署名拒否を続けた。

 ビロード革命について当時、民主化デモに参加した女性ラジオ編集者、マルチナ・シュナイベルゴワさん(52)は「何万人もが参加したのに、当初のデモで学生と警官隊が衝突した時のような暴力はなかった。『私たちは勝利した。何かを起こした』と実感した」と振り返る。勤務先だった国営「ラジオプラハ」は当初、デモを「反社会主義的」と宣伝したが、翌週には事実を伝えるようになり、その翌週には共産党員の幹部が辞めていった。

 学生らのデモから、反体制派の中心だった作家ハベル氏(73)が大統領に就任するまで、わずか六週間。事態の変化は急激だった。

 「(プラハの春の)民主化運動が失敗後、社会主義への失望と無力感が国を支配した。知識人の国外流出が絶えず、抑圧と沈黙の二十年間だった」。プラハ・カレル大学経済学研究所のマルティン・グレゴール副所長(32)は革命前の国民心理を説明する。八〇年代、隣国ポーランドで起きた自主管理労組「連帯」の運動も、チェコを変えると確信させるものではなかった。ビロード革命のテンポの速さは、それまでの慎重な姿勢による遅れを取り戻すかのようにも受け止められる。

 革命からの二十年で経済的発展を遂げる一方、失業率は一時、10%に達し、欧州統合の波に乗り遅れまいとする危機感も強まる。

 クラウス大統領の姿勢について、グレゴール副所長は「『社会主義か市場経済か』のように、常に二つの選択肢しかない。それが、民主化に失敗した過去に戻りたくないという国民の琴線に響いている」と指摘する。大統領には絶対的な影響力こそないが、世論調査での人気は高い。

 ナショナリズムを思い起こさせる政治姿勢は、ポーランドのカチンスキ大統領とも共通する。根底にあるのは統合する欧州で「二等国扱い」をされたくないという思いだ。小国ながら、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)に七百人を派兵、オバマ大統領の求めに応じ、増派も検討するが、国際貢献の背景にはナショナリズムによる右傾化もあり、政治的不安定の要因ともなっている。

  (プラハで、弓削雅人、写真も)

<東欧民主化> 旧ソ連のゴルバチョフ政権が進めたペレストロイカ(改革)路線の影響もあり、1989年に東欧諸国で次々と民主化が実現した。5月にハンガリーが西側との国境を開放、6月にポーランド自由選挙で自主管理労組「連帯」が勝利、11月に東ドイツのベルリンの壁崩壊、旧チェコスロバキアの無血革命、12月にルーマニアでチャウシェスク政権崩壊などが続いた。


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