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文部スレ

1とはずがたり:2005/05/22(日) 12:54:46
教育一般。

文部科学省
http://www.mext.go.jp/

3757とはずがたり:2018/09/22(土) 21:50:04
教員達が云ってる事はほんと異口同音。しかし真実だと思うがポジショントークと解釈出来るしカネ無いので犠牲にしとけということか全然正常化しない

2018.09.13
日本の科学研究が衰退している「2つの理由」
いま大学の現場で起きていること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57264
中屋敷 均

牙を失うアフリカ象
2016年、英国の高級紙である『タイムズ』や『インディペンデント』に、相次いで衝撃的な記事が載った。それは牙を持たないアフリカ象が増えているというものだ。

アフリカ象は、オスメスともに、インド象に比べて大きな牙を持つことが特徴とされていたが、その象徴とも言える牙を失った象が、地域によってはメスの98%を占めるまでに至っているという驚きのニュースであった。

これは密猟者の影響だという。象の密猟は、象牙が目的であるため、大きな牙を持った象は狙われやすい。逆に言えば、牙を持たない象は密猟の対象とならないために、生き延びて子孫を残しやすい。

この強力な「淘汰圧」の結果、過去の調査では、2〜6%に過ぎなかった「牙を持たない象」が、優先的に増殖してしまったということらしい。また、牙を持った象でも、その平均サイズが100年前に比べて概ね半分になっていたことも、調査の結果、明らかとなった。

こんな短い期間に、アフリカ象が牙を持たない方向に「進化」してしまっているとは、なんとも悲しい。また、人為的な「淘汰圧」の凄まじさを実感できる話でもある。本稿では大学における、そんな「淘汰圧」の話をしたい。

衰退する日本の科学と淘汰圧
最近、日本発の科学論文の、世界における相対的な地位低下がよく指摘されている。2017年の『ネイチャー』誌の記事では、ネイチャー・インデックスという高品質の自然科学系学術ジャーナルを対象としたデータベースに含まれている日本人の論文数が、過去5年間で8.3%も減少したとされている。

また、科学論文をより広く網羅するスコーパス・データベースに収録されている日本人論文の割合も、2005年の7.4%から2015年には4.7%へと減少した。

実際、大学という現場にいると、この10年に限らず、2004年の国立大学法人化以降、研究環境は悪化の一途をたどっているというのが実感である。この期間に起こった変化の一つは、大学への競争原理、つまり淘汰圧の導入である。

以前の大学は、贅沢を言わなければ、大学から支給される研究費だけで、細々とではあってもなんとか研究を続けることができた。しかし、大学の法人化以降、「選択と集中」の掛け声の下に改革が進み、それが難しくなっている。運営費交付金と呼ばれる国からの基本給のようなお金がどんどん減り、営業成績に準じたボーナスのような競争的資金と言われる予算が増えた。

運営費交付金の大部分は、職員の給与やその他、大学運営に必須な部分に使われており、結局減らされたのは教員の研究費である。その代わりに競争的資金による研究費を増やすことで、やる気のある研究者は、競争に勝ち抜いて自分でお金を稼ぎなさいというのが政府の思想である。

雇用の形態も競争的になった。特に若い研究者を中心に雇用が任期付きになり、若手研究者は社会的に不安定な身分となってしまった。成果を出し続けないと、任期が切れた際に次の職がない。

そのプレッシャーの中で研究をすることで、より良い結果が早く出るようになるはずだ。研究者は、やりたいことをしているのだ。たとえば野球選手だったら、結果が出なければ、一軍には残れず、野球を諦めるしかない。それと同じ競争だ――という訳だ。成果を出さないと研究者として生き残れない。そんな「淘汰圧」である。

過度な「選択と集中」
大学に対する「ぬるま湯」「レジャーランド」といった批判はずいぶん昔からあり、大学教員の中には、一体、何をしているのだ? と、外から見た場合に、思えてしまう人たちがいるのも事実である。そこに競争原理を導入して、怠惰な研究者は淘汰する仕組みを作るべし、というのは、ある意味、正論である。

3758とはずがたり:2018/09/22(土) 21:50:22

しかし、ではどうして、それを導入した日本の科学研究が衰退の方向に向かっているのだろうか?

問題点はいくつかあると思うが、ここでは二つ指摘したい。一つには「選択と集中」に代表される「淘汰圧」が行き過ぎているということである。

「選択と集中」とは、元々、対象を一部に絞って、そこに集中的に投資をしていくという方針なので、当然の結果、ということかも知れないが、使い切れないほどの予算を持つ研究者がいる一方、実質的に研究ができないという層が生じている。

一旦、何かの拍子に予算が切れると、研究ができなくなり、論文も書けなくなってしまう、するとさらに予算が取れないという悪循環に入り込むことになる。これにより、以前は一定の生産性があった研究者層の活力が削がれるようなことが起こっている。

一方、「集中」している方は、えてして予算がダブついており、年度末に予算を使い切るのに苦労するという景気の良い話もしばしば耳にする。その結果、結局はほとんど使われないことになる不急の機器を買ったり、あっちこっちの国際会議に出かけたりと、何だか無駄遣いしているようにも見えるのだ。

そしてそんな「格差」は、研究者としての実際の力量の差をはるかに拡大した形で現れている。競争原理を導入すること自体に反対するつもりはないが、費用対効果を考えると、現状は明らかに行き過ぎている。

また、若手の研究者を中心に、優秀であっても安定したポストが得られないということがしばしば起きている。研究は人間が行っており、そこで育つ人を大切にしない分野が発展などするはずはない。40歳を超えても、家族がいても、任期が来れば職がなくなってしまうのだ。

そんな業種に、若い優秀な人間が、行きたいと思うだろうか?

〝評価〟が揺るがす知の源泉
そして、もう一つの、それは科学の本質に関するかも知れない、深刻な問題は、この「淘汰圧」の導入により、研究者の選択、研究の方向性みたいなものが大きく影響を受けているということである。

「選択と集中」を行うためには色んな研究/研究者を評価して、これは良い研究だからお金を配り、これは必要ないからお金を出さない、といった判定をしなければならない。つまり〝評価〟が必須である。

研究/研究者の評価は、打率がいくらで、年間何勝を挙げた、というような誰の目にも明らかな数字で行うことはできない。では、どのように評価されているのだろうか?

たとえばガンに関する研究と地球温暖化に関する研究のどっちが大事かと言われても、即答できる人などいないように、研究内容自体の評価は、評価者の興味や価値観が大きく作用してしまい、一定レベル以上に踏み込むのは、なかなか難しい。

従ってより客観的なものとして、その研究者の業績、つまりどんな論文をどれくらい出しているのかといったことが、実際には重視されている。論文の質の評価は、それがどれくらい他の論文に引用されたかという、インパクトファクター(正確には論文が掲載された雑誌に対する評価指標であるが)と呼ばれる指標がよく用いられる。

また近年は、研究成果の社会還元が重視されており、研究成果が社会にどのように役に立つのかという点も、厳しく評価される傾向がある。

こういった評価の基準は「淘汰圧」そのものであり、必然的に研究者の側に影響を与えることになる。生き残るためには、評価される方向に適応していかなければならないからだ。

特に任期付きの教員にとっては、次のポストが得られるかどうかは死活問題であり、確実に論文を書けるテーマやインパクトファクターの高い雑誌に載る論文がかけるようなテーマを選ぶ方向にバイアスがかかってしまう。自分が本当に何を知りたいのか、興味があるのかということより、次のポジションを確保するためにはどうすれば良いかを考えて研究をやらざるを得なくなる。

3759とはずがたり:2018/09/22(土) 21:50:38
>>3757-3759
はびこる「いかに他人から評価されるか」
また、任期付きでない教員であっても、評価されない研究は、現実的に予算が取れない。だから、多くの研究者が、成果がすぐに社会に還元できるようなテーマ、予算が獲得しやすいテーマへと傾いてゆく。

こういった趨勢の最大の不幸は、「いかに他人から評価されるか」ということが研究者を動かす大きな関心事になってしまっていることである。もっと言えば、それに合わせて「自分の何かを売れる」人が生き残りやすい仕組みになっていることだ。

科学は本来「これを知りたい」「何が真理なのか」といった研究者の内にある純粋な興味から発する所に価値がある。個性の違った一人一人の人間が、自分の情熱を傾けることができる〝何か〟を見つける。そこに研究のオリジナリティーの源泉があり、知的興奮が生じる所以があるのだ。

そういった〝内なる真実〟ではなく、〝外なる評価〟が研究を動かすようになってしまった。それは科学の「生命力」を本質的に損なうものであり、科学者の根っこにある「自己」から発せられる情熱や活力を奪ってしまう。

昨今、話題となったデータ捏造も、外なる評価が大きな価値を持つから起こることであり、何かを本当に知りたいと思っている研究者にとっては、捏造などやってみても何の意味もないのだ。

大学はこれで良いのか?
また、大学の在り方自体にも同じような問題が起きている。大学の外部評価のために、何年以内に世界大学ランキング何位を目指しますといった目標を作ったり、ランキングを上げるためにママゴトのような英語コースを作ったり、大学が「いかに他人から評価されるか」ばかりを追いかける場所になろうとしている。

日本の大学がイギリスで作られる大学ランキングで上位になることの、一体、何が重要なのだ?

昨今、毎年のように日本人のノーベル賞受賞のニュースが流れたが、それは世界に伍するだけの日本独自の研究があったことを明白に示している。日本の大学には、オリジナリティーを持った研究を育てる力が、少なくとも過去においてはあったのだ。どうしてそのことにもっと自信を持てないのか?

日本の大学における研究活力の衰退は、「研究」というものに無理解な行政(文科省)が、大学の在り方や大学における研究に対して、「淘汰圧」を使って介入するようになってきたことが、恐らく最大の原因である。

大学改革を立案する文科省の高級官僚の多くは基本的に研究生活など経験したことのない文系の秀才達であり、机上の論としては良くできていても、どこかズレたものばかりである。

以前は大学における学問を尊重し「育てる」ような意識が感じられたが、昨今は短絡的なビジョンで大学を「支配」しようとしているように見える。その結果、死屍累々とした荒野に、誰も読まない書類が積み上がっている。アカデミアの世界から「熱」が奪われ、研究者、特に若い研究者達が、夢も希望も持ちにくくなっているのだ。

これと表裏一体にあるのが大学側の頽廃(たいはい)だ。こういった世界ランクだの、ミッション再定義だの、英語コースだの、皆が意味がないと思っていることであっても、「文科省の指示だから」「逆らうと運営費交付金を減らされるから」というような理由で従っていく光景に、いつの間にか大学人が慣れっこになっている。

〝誰かの思い付き〟レベルの指示を無批判に受け入れ、それに空しく膨大な時間や労力を費やすことを、当たり前に思うようになっている。それを知的頽廃と呼ばずして、何をそう呼べと言うのだろう。

大学の本来の姿は、「自己」というものに根付いた知性、自分が何を本当に面白いと思い、何に世界の意味を見出すのか、そういった〝知の源泉〟を育てることではなかったのか? 

目の前の不条理に声を上げることすらできない大学人。それは「淘汰圧」により、「牙を持たない大学人」へと「進化」した姿なのだろうか? 自己に根付いた知性という「牙」を失った大学人に、果たしてその存在意義はあるのか?

そのことを自問してしまう、現在の大学である。

(なかやしき・ひとし 神戸大学大学院農学研究科教授/「本」10月号より一部改変)


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