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文部スレ

1792荷主研究者:2011/05/03(火) 00:19:33

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110420103.htm
2011年4月20日03時07分 北國新聞
「金大」発祥の地特定 医学部の前身・彦三種痘所

彦三郵便局前に立つ赤祖父会長=金沢市安江町

 1862(文久2)年に設けられ、金大発祥の地とされる金大医学部の前身「彦三種痘所」の跡地が19日までに、現在の彦三郵便局(金沢市安江町)付近にほぼ特定された。北陸医史学会の赤祖父(あかそふ)一知会長が藩政末期の絵図などを元に絞り込んだ。来年2012(平成24)年に「創基150年」を迎える金大は、石川の近代医学の出発点となった同地に記念碑を建立する。

 「彦三八番丁」と伝わる種痘所の所在地はこれまで、おおまかに現在の明治安田生命金沢第2ビル(同市彦三町2丁目)付近と推定されるのみで、詳しい立地は分からなかった。赤祖父会長は昨年、医学部創立150周年記念事業委員として跡地確定の調査に乗りだした。

 調査の結果、彦三種痘所の設立や活動を記した同時代の史料はなかった。

 調べた絵図の中にも種痘所の場所を直接示す記載は見当たらなかったが、赤祖父会長は、藩政末期の「金府大絵図」中に、「検(けん)校(ぎょう)ヤシキ」と記した箇所があるのに注目した。彦三八番丁に隣接した町人地の一角、現在の彦三郵便局の地と隣地にまたがる場所に書き込まれていた。

 検校ヤシキが具体的にどんな建物かは不明だが、所有者の移り変わりを調べると、1864(元治元)年3月、町人の組合から藩の御算用者の手に渡り、同時に彦三八番丁に組み入れられたことが分かった。

 ここから赤祖父会長は、加賀藩医が1862年に組合建物を借り上げて種痘所を設置した可能性が大きいと結論づけた。64年に藩立種痘所として南町に移るまで、この地で活動したと考えられるという。

 当時の種痘法からも、赤祖父会長は「武家地であるもともとの彦三八番丁より、人の往来が自由な町人地内にあるのが自然」とする。金沢より先にできた京都や大阪の種痘所も町人地にあったという。

 赤祖父会長の調査を受けて金大は19日までに、今年度中の同地への記念碑建設を決めた。金大創基150年記念事業準備委員会委員長を務める柴田正良人文学類長は「150年の節目を前に明らかになった金大のルーツの地を今後広く世に知らしめていきたい」としている。


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