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労働運動

2192とはずがたり:2020/12/30(水) 20:24:35
ヒゲ戸田さんの関生の解説。めっちゃ詳しい。こんなんやったんだね。

(注)共産党直系だった関生が弾圧対応で共産党と分岐、独自左派に
http://www.hige-toda.com/____1/renntai_yunionn/kakikomi/1_22kakikomi_3htm.htm

 草加さんの解説で、関生(かんなま)の生い立ちと共産党との分岐時期についての認識の所だ けが事実と違っているので、戸田から説明します。

1;関生は1965年に「全自運関西地区生コン支部」として出発した時から(その前史も含めて)  一貫して共産党員が委員長初めとする役員の大半を占める、共産党直系の労組でした。
 現場叩き上げの生コン労働者が共産党から教育を受けて労働運動や政治運動に邁進し、共産党党員になって、共産党の指導と指揮に従って労組活動をしてきました。  
 昨年10月の武委員長の講演の記録を見ると、共産党との分岐当時、関生には共産党員が500名くらいいたとあります。講演では「・・事実は関生党員みたいな性格が強かった。 共産党の攻撃の時には、その99%が共産党を脱退しました。」ともあります。

2;関生労組は出発時点から職場のヤクザ支配と熾烈に闘わざるを得ない状況があり、現実に会社が雇ったヤクザに2人が殺されているし、武委員長も拉致監禁されるなど少なくとも5回は殺されかけています。ヤクザに暴行・脅迫された例は数え切れません。  
 そういう闘いを経て、やがては「山口組も手を出さない」ほどの闘争力と力関係を作りあげていきましたが、それはまさに血と汗に色どられた苦闘の歴史です。

3;そういった修羅場を何度もくぐった労組ですから、公務員比率がどんどん高まった共産党労組の中では「最も頼りになる実力部隊」であると同時に「異色の存在」でもありました。  
 特に武委員長の卓越した指導力・構想力はありきたりの共産党指導の枠に収まり切らず、共産党と武委員長サイドとのあつれきが広がっていきました。 武委員長のカリスマ的指導力とそこへの多数の労組員の心服を指して共産党は(外部の人も)「武一派」・「武一家」とも呼ぶほどでした。

4;生コンの労働運動の進め方では共産党とのあつれきが生じていたとは言え、イデオロギー的には「日本共産党」のイデオロギーが正しいものと、関生役員(共産党党員)は長らく考えてきたわけですから、60年代後半〜70年の世界的激動期にあっても、関生は「新左翼」や「全共闘」とは全く無縁で、「あんな奴らはトロツキストの跳ね上がり分子だ」的にしか考えなかったわけで、例えて言うならばその時代にソ連東欧圏での民主化運動弾圧に動員された「筋骨たくましい炭坑労働者」みたいな位置にあったでしょう。


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