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労働運動

1520とはずがたり:2017/08/22(火) 10:09:30

 「満員電車ゼロ」を公約に掲げる小池百合子東京都知事が、企業や個人に参加を呼びかけている「時差Biz(ビズ)」である。通勤ラッシュ回避のために通勤時間をズラしたり、テレワークを活用したりという「働き方改革」のひとつで、鉄道会社やさまざまな民間企業が連携し7月11日から25日の間に行なわれるという。

 小池さんといえば、「クールビズを世の中に広めたのは私です」でおなじみだが、あの国民啓発運動を成功に導いた実績から、「時差ビズ」もいけると踏んだということなのだろう。

 確かに、「時差通勤」がクールビズくらい当たり前になってくれれば、「地獄」のような通勤ラッシュも多少はマシになる。小池知事にはぜひともテレビなどに出演してガンガン啓発していただきたいと願わずにはいられない。

 ただ、その一方で、「働き方改革しよう!」という呼びかけだけで、時差通勤を広めていくのにはやや心もとない気もしている。

 実は言い方はいろいろあるが、「時差通勤で働き方改革を!」というのは、終戦直後から唱えられつつも、この70年間ほとんどうまくいった試しがないスローガンだからだ

昔の「通勤ラッシュ」はひどかった

通勤ラッシュは昔のほうがひどかった
 「痛勤」なんてやゆされて、世界的に見てもひどいと言われる日本の「通勤ラッシュ」だが、実は昔はもっとひどかった。

 戦後間もない頃には、母親と一緒に乗り込んだ赤ちゃんが圧死した。急ブレーキで車内が将棋倒しになって内臓破裂で亡くなった人もいた。比喩ではなく本当の意味で「通勤地獄」だった。

 どれくらい地獄だったのかというのは、終戦翌年の夏を控えて、都交通局や国鉄が「交通地獄」を回避するため、「二部制の時差通勤 週一度は自宅執務」(朝日新聞 1946年6月7日)と呼びかけていることからもうかがえよう。もちろん、このアイデアが社会に浸透することはなかった。

 その後、1961年には「時差通勤通学対策」が東京で導入。1964年になると、佐藤栄作首相が、新宿駅で満員電車に入りきれない乗客を押し込むバイト職員「シリ押し」(現在のプッシャーマン)を視察して絶句。このように憤ったという。

 「だからワシがいつも言っているように社会総合計画がないんだよ」(朝日新聞 1964年11月26日)

 こうして「通勤地獄」は国を挙げて解決すべき「社会課題」となり、翌65年には国鉄労働科学研究所が「ラッシュと疲労度」という調査を実施。満員電車に乗ると体は動かないのに、脈拍が急上昇するなんてショッキングな結果とともに、とにかく長生きをしたければ時差出勤をせよ、と触れ回ったのである。

 しかし、その効果はほとんどなかった。というよりも、事態がさらに悪化していった。

 60年代後半から70年代にかけて、国鉄をはじめ私鉄でもストライキが多発するのだが、交通機関が動かないなかでも、「男は黙って定時出勤」(朝日新聞 1971年5月18日)なんて感じで、あの手この手で始業時間までに席に着いているのが、「サラリーマンの鏡」みたいな風潮が生まれてしまったのである。

 そのなかでも特に高い出勤率を誇ったのが、いわゆる大企業。そしてそこの幹部社員たちである。当時の『朝日新聞』ではトヨタ、ソニーなど大企業の幹部社員を一覧にした「それでも行く管理職」というコーナーで、「出社方法」や「欠勤者の扱い」を紹介している。

 このように「鉄道ストにも屈しないで定時出勤をするサラリーマン」が注目を集め、その愚直ともいうべき滅私奉公の姿が大きく報じられたことが、大地震がきても台風がきても、会社を目指す日本のサラリーマン像のロールモデルになったというのは容易に想像できよう。


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