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Tohazugatali Tourist Bureau
5868
:
OS5
:2024/04/22(月) 09:55:39
https://news.yahoo.co.jp/articles/ddbb63a2dd27b1fdbc854c08685ea489b9c0a85b
自国開催は明治以降3代の夢 「推進役」不在となった現政権 万博未来考 第2部(2)
4/16(火) 13:00配信
万博を誘致するのは、ほかならぬ国家である。明治の近代国家の船出から100年余り。浮かんでは消えた自国開催の悲願を日本はいかにして達成したのか。
「先生、オリンピックの次は万国博覧会をやりましょう」
1964(昭和39)年東京五輪を1年後に控えた63年10月、通商産業省(現経済産業省)の一官僚だった堺屋太一氏は、ある国会議員と面会し、こう訴えた。この出会いを機に悲願の万博開催を目指した国家による誘致活動が本格化していく。
万博は時代の最新技術を展示し、社会普及を加速させる世界最大規模の国際行事である。
1851年の英国に始まり、1世紀以上にわたって万博を主催したのは欧米諸国。自国開催は国際社会におけるステータスでもあった。アジア初開催となった1970年大阪万博の公式記録にはこうある。
《万国博に出展参加するだけでなく、これを自国で開催することは、明治、大正、昭和の3代にわたる日本の夢であった》
■相次いだ誘致構想
日本初の公式出展は1867年パリ万博。その後、海外での参加経験を重ねるうち、日本誘致構想が相次いで浮上する。
まずは、日本書紀に基づく建国から数えて「紀元2550年」の1890年開催を目指した亜細亜(アジア)大博覧会。続いて1905年の日露戦争勝利を受け、政府は日本の産業発展を世界に誇示する日本大博覧会の12年開催を決定。しかし、これらは財政難などの理由でいずれも見送られた。
幻の万博といわれるのが、40年の「紀元2600年記念万博」だ。
1938年の会合で商工省(現経産省)担当課長の豊田雅孝氏は、万博を「一国の産業、文化のバロメーター」と表現。「東西文化の融合」をテーマとする40年万博で「日本の産業、文化の精華を中外に宣揚することが一大理想」と訴えた。
計画上は現在の東京・晴海の主会場に建国以来の史実を紹介するテーマ館と、参加国の出展を含む約30館のほか、約3万人収容の広場を整備する《壮麗雄大な一大臨海博覧会》(官報付録「週報」)だったが、日中戦争の激化に伴い、政府は38年7月の閣議でやむなく「延期」を決定した。
■「佐藤の万博」挑む
それから四半世紀。国際博覧会条約に加盟していなかった日本に63年9月、博覧会国際事務局(BIE)会長が文書で加盟を申し入れた。条約に加盟していなければ、万博開催を巡る待遇で不利になるためだ。40年万博など実現しなかった3件はBIEが公式に登録する博覧会とは異なる。
4度目の挑戦に向け、冒頭で堺屋氏が訪れた人物こそ旧商工省幹部で戦後、参院議員に転身した豊田氏だった。豊田氏は国会などで万博開催を提案し、64年12月に衆参両院は同条約を批准した。
堺屋氏の著書『地上最大の行事 万国博覧会』(光文社新書)によると、東京五輪時の首相、池田勇人氏の後継である佐藤栄作首相は65年初頭、堺屋氏から万博の理念について私邸で説明を受けると、こう意気込んだという。
「面白い。池田のオリンピックに続いて、佐藤の万国博覧会にしたい」
《総理が乗り気になった。これは大いなる追い風である》。国のトップの首相からお墨付きを得た堺屋氏は、先の著書で当時の興奮を述懐している。
動きは加速する。日本は65年2月に国際博覧会条約に加盟し、同4月に70年万博の開催申請書をBIEに提出。65年9月、日本での70年万博開催が確定した。
高度経済成長期の日本において、計画立案者の堺屋氏は「近代工業国・日本」を万博のコンセプトとし、「規格大量生産の中で人間性をいかに保つか」に主眼を置いた。結果、来場者は史上最多(当時)の延べ6421万人。事前の赤字予想を裏切り、192億円の黒字だった。
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