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Tohazugatali Tourist Bureau

4529チバQ:2020/08/04(火) 11:05:26
https://news.yahoo.co.jp/articles/17d797e9b9057e17531d98780dae1b14fd033ccb
8月末で閉園する「としまえん」 私鉄系遊園地はさらに淘汰される時代へ
8/4(火) 5:59配信


遊園地のとしまえんは西武の豊島園駅の目の前にある
 8月末をもって、としまえんが閉園する。

 としまえんは、西武鉄道グループ系列が運営する遊園地。としまえんの閉園によって、東京23区内から鉄道系の遊園地が姿を消すことになる。
 東京23区内には、東武鉄道が運営する兎月園、東急電鉄が運営する多摩川園・玉川第一遊園・第二遊園、王子電気軌道(現・東京都交通局)が運営している荒川遊園など、多くの遊園地が乱立していた。

 王子電気軌道は1942年に東京市(現・東京都)へ事業譲渡。鉄道事業が市電に組み込まれると、荒川遊園は閉園を余儀なくされる。しかし、戦後に区立あらかわ遊園として復活。現在も貴重な区立遊園地として主に未就学児童から人気を博している。

 激動の時代を生き抜いた遊園地もいくつかあるが、昨今のテーマパーク界の勢力図は東京ディズニーリゾートとユニバーサル・スタジオ・ジャパンの2強時代に突入している。

 しかし、かつての鉄道と遊園地は切っても切り離せない濃密な関係にあり、鉄道会社が遊園地業界を牽引する時代があった。

 特に私鉄にとって遊園地の経営は入園料を得られる大きな副収入源であり、沿線に遊園地をオープンさせることで遊園地へと足を運ぶ鉄道利用者を生み出せることから、鉄道会社そのものの収入を支える起爆剤でもあった。

 遊園地を沿線につくり、鉄道の収入を増やそうとする誘客戦略は、昭和期には私鉄のビジネスモデルとして定着していた。自社沿線に遊園地をつくるというビジネスモデルを編み出したのは、阪急グループの総帥・小林一三というのがこれまで定説化していた。

 通勤時間帯に都心の大阪方面へと走る電車が満員であるのに対して、逆方向の郊外へと走る電車がガラ空きである光景を見て、小林は効率的に利用者を生み出す方策を検討する。その答えとして、都心とは逆側の郊外に遊園地や動物園といったレジャー施設をつくることを発案した。

 それまでにも浅草花屋敷(現・浅草花やしき)など、日本にも遊園地は存在していた。いまや阪急と同じグループ企業になっている阪神は、長らく大阪-神戸間を阪急と争うライバル鉄道でもあったが、その沿線には酒造で財をなした豪商たちが地域振興を目的とした遊園地をつくっていた。それらは阪神が建設資金の一部を補助したり、後に運営主体が阪神電鉄に切り替わったりしている。

 このほど閉園するとしまえんも、もともとは西武が運営する遊園地ではなかった。としまえんの敷地は実業家の藤田好三郎の邸宅で、整備された庭園が藤田の意向によって一般開放されたことが遊園地としての出発点でもある。

 当時、鉄道会社に遊園地をつくるという発想はなかった。小林が考案した鉄道と遊園地のコラボレーションは宝塚歌劇団を生み出すことにもつながり、そうした成功もあって私鉄のビジネスモデルとして半ば伝説化していった。

 他社も沿線を盛り上げるために小林のアイデアを模倣。こうして、私鉄の沿線には鉄道会社の直営もしくは系列会社によって運営される遊園地が次々にオープンしていった。


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