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法学論集

880小説吉田学校読者:2007/04/08(日) 08:12:42
2児の母親は殺害説が濃厚ですが、これから「動機が工作」以外の拉致疑惑事案が相当数浮上すると予測する。
これを解決するには、北朝鮮が「全面自供」するしかないのだが・・・

工作員の夫に振り回された家族…渡辺さんの親友証言
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4200/news/20070408i101.htm

 1973年に行方不明になった埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)の渡辺秀子さん(当時32歳)の2人の子供が拉致されたとされる事件で、渡辺さんと親しかった北海道帯広市在住の女性(65)が読売新聞の取材に応じ、北朝鮮工作員だった渡辺さんの夫の動向や一家の様子などを語った。
 その証言からは、国内で暗躍する工作員に振り回された家族の悲しい姿が浮かび上がってくる。
 女性は、渡辺さんが通っていた帯広市内の高校の同級生。渡辺さんの結婚後の68年ごろに付き合いが復活し、毎年夏に帰省する度に会うようになった。
 夫は実家に妻と長女・敬美(きよみ)ちゃん(拉致当時6歳)、長男・剛(つよし)ちゃん(同3歳)を送ると、自分は泊まらず、1人でホテルなどに宿泊し、翌日東京に帰ったため、女性が夫に会ったのは1度だけ。背が高く無口で、高価な眼鏡をかけていたのが印象的だったという。
 中国語や英語も話せたようだった。肩書は貿易会社専務で、「高岡」「高田」「渡辺」と名前を使い分けていた。月収は80万〜120万円。渡辺さんはいつも、封筒に入った札束から食事代を払ってくれた。また、3、4通の預金通帳を持ち歩き、「自宅には10キロの金塊が二つある」とも話していたという。
 女性が渡辺さんから聞いた話によると、埼玉県の自宅には、夫の弟で「ほしの」と名乗る男が同居し、朝早く家を出て、夜遅くに帰ってきた。外で1人でラジオをじっと聞いていたこともあった。家族と外出先からタクシーで帰る時には、夫は5、6軒手前で降りて歩くのが常だったという。
 女性が渡辺さんに電話をかけてもつながらず、逆に渡辺さんがかけてきた時は、決まってデパートなど外出先からだった。「近所付き合いや自由な外出も許されていなかったようだった」と女性は話す。
 朝鮮の民族衣装を着た渡辺さんの写真を見せられたことがあった。豪華で、胸にはブローチが付いていた。渡辺さんは「このブローチを付けて歩くと、向こう(北朝鮮)の人はびっくりした顔をして、お辞儀をして通り過ぎる」と説明し、女性は、渡辺さんが北朝鮮に渡ったことがあるのだろうと思った。
 最後の帰省は73年の夏。渡辺さんはやせ、口数も少なかった。「私の夫、工作員なの」と打ち明けられたのはその直後だった。女性は「工作員」の意味がわからなかったが、渡辺さんからは、夫が道内のホテルや料亭などで、日本の防衛・治安関係者と頻繁に会っていたと聞いた。
 「親子で帯広で暮らすように」と夫からもらった1200万円の小切手も見せてもらった。夫の出国前には、「金塊も売りなさい。その時はきちんとした服装で行きなさい」と指示された、と話していた。この時、「北朝鮮で暮らすことになるかもしれない」とも語っていた。
 女性はまた、一家失跡後の74年3月に「渡辺さん本人から電話があった」と話している。真夜中に突然、女性宅に「福井にいる」と連絡があり、すぐに切れたという。電話口の向こうからは汽笛の音も聞こえた。女性は「長年付き合ってきた秀ちゃん(渡辺さん)の声を間違えるはずがない。きっと今も生きている」と話している。


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